……磁軸を抜けた先に広がっていた景色は霊堂のものとは違う、明るい翠緑と木漏れ日に溢れた森だった。
眼前に広がる光景は先ほどの霊堂の欠片もないくらい自然と緑で埋め尽くされており、聞こえる鳥の声も匂いすら完全に霊堂と別物である。
離島とは言え僅か一キロ程度しか離れていないはずの場所なのに、ここまでの変貌っぷりに冒険者たちは言葉を失うしかなかった。
「枝分かれした低木、幹が膨らんだ樹木……間違いない」
「これって…碧照ノ樹海だよな?」
オルヴェやエドの故郷がある西の街タルシス。
そこから北に広がる大草原を進むと辿り着く巨大なバオバブ群が乱立する緑と泉の迷宮──それが『碧照ノ樹海』だ。
幼い頃から聞かされていた冒険の舞台に今、自分たちは足を踏み入れているのだ。
「話で聞いた通りの迷宮ですね、オルヴェくん!」
「ああ……!すっげぇ……!でも何でタルシスじゃないのにあるんだろう?」
「よね。あなたたちの話を聞く限りだとほぼ同じ景色なんでしょ?」
オルヴェとエドは子供みたいに目を輝かせながら大はしゃぎで走り回り、ヴィーザルとイリスも控えめながら一変した植生に興味をそそられている。
対してアリシアが周囲を見渡しながら興味深そうに唸って、首をかしげて問いかけてきたのでオルヴェはその通りだと胸を張った。
……というか、実物を見たことがないので大体でしか答えられなかったが。
「とにかく似てるのは分かった。どんな魔物がいる」
「えーっと、森ネズミだろバッタだろ……あとそれから」
覚えている魔物を指折り数え水を得た魚の如く喋りまくるオルヴェの話を聞きながら、ヴィーザルを筆頭に冒険者たちは各々武器を手に取って歩みだす。
我らがリーダーが言っている魔物らしき影や気配は今のところ皆無、だが樹海に足を踏み入れた以上いつどこで何が襲ってくるか分からない。
自分の世界に入って樹海の知識を熱弁していたオルヴェも、歩き出した仲間に気が付くとすぐに足をもつれさせながら駆け出そうとする。
『マスター、碧照ノ樹海とは?』
「え?」
──腰に差していたベータの問いかけはオルヴェだけではなく、先を進んでいた冒険者たちの足も絡め取ってその場に釘付けにした。
『私のデータベースにそのような樹海群は登録されていませんよ。
……そもそもこのレムリア島にはここまで大規模な樹海は存在しません』
「どういう事だ?お前には見えないのか?」
突然意味不明な事を言い出したベータをオルヴェは眉をひそめて握りしめてやる。
……こうすれば勝手に共有している自分の視界から眼前に広がる碧照ノ樹海がよく見えるはずだ。
見せつけるようにベータを構えて歩く度に短い電子音と考え込むような長い沈黙が続き、やがてベータはどこか困惑したように頭を振った。
「恐らくですが、私が眠っている間に島の生態系が大きく変化したようです。警戒を怠らないでください、マスター」
ベータはゆっくりと、しかし所々押し黙り、言い淀みながら言葉を紡ぐ。
……それはまるで信じたくない事実を無理矢理飲み込んで吐きそうになりながら喋っているようで、気が付けばオルヴェは膨らませていた頰をしぼませ真剣な眼差しで青い剣を見つめた。
「ベータさんって何年眠ってたの……?」
「……現時点では、分かりません」
イリスの問いかけにそれだけ答えると、もう話すことは無いと言わんばかりにベータは再度沈黙した。
……樹海に生えるバオバブがパーティで一番背が高いオルヴェの何十倍もの大きさに成長するまで一体どれだけの時間が必要なのだろうか。
それも、一本だけではなく数え切れないほど。
「き、君たちどこから来たんだ!?」
不意に響いた葉擦れの音と大声に思わずオルヴェはベータの切っ先を声の方へ振るい、イリスは悲鳴をあげて跳ねながら槍を構える。
……振り向いた先にいたのはマギニアの腕章をつけた衛兵だった。
衛兵は突然現れたアルゴノーツと赤く輝く樹海磁軸を交互に見つめながら口をパクパクさせる。
……まるで幽霊でも見たような、剣を抜くどころか今にも腰を抜かしそうな衛兵の様子にアリシアは脱力すると黙って星術器の電源を落とし前へと歩み出た。
「私たちはギルド『アルゴノーツ』の冒険者でして──」
◆◆◆
「──なるほど、君たちが司令部から言われていた例の冒険者ギルド……」
「はい!オレはオルヴェ、ギルド『アルゴノーツのリーダー』です!それでこっちはオレの大事な友達です!」
「ふふ、随分と仲が良いようじゃないか」
大困惑しながら驚く衛兵にアリシアたちは司令部の命令で樹海磁軸を起動したこと、それに触れてこの島に飛ばされたことを告げた。
……本当に夢や妄想だとしてもあまりにバカバカしく信じがたい荒唐無稽なストーリーだな、とアリシアは心の中で自嘲した。
最初はホラ話みたいな本当の話に石化したように目と口をあんぐりと開けて固まっていた衛兵だったが、司令部からの命令や樹海磁軸という単語には覚えがあったらしく今は抜けた腰をはめ直し司令部から受けていた指示通り樹海に現れたアルゴノーツをベースキャンプまで送り届けていた。
……どうやらあの場所は『本物の』碧照ノ樹海ではなかったらしく、少し進むと前の島でも見たような葉の茂った木々の小道が現れる。
「君たちが樹海磁軸を繋げてくれたお陰でわざわざ小型船でこの島に渡る必要がなくなりそうで助かるよ」
「えへへ、役に立てて私も嬉しいよ!」
「……だとして、何故俺たちを最初に見た時あんなに驚いてたんだ?」
歩きながら無邪気に喜ぶイリスとは対照的にヴィーザルは少し離れた位置から衛兵に言葉を投げかけた。
目付きの悪いアーモンド色の瞳に睨まれた衛兵だったが、特に気にすることもなく頭の中から記憶を取り出すように指先をくるくる回してみせた。
「ぁあ、君たちが転送された樹海……碧照ノ樹海の探索前に必ず冒険者はベースキャンプで記録を取るからだ」
「記録?」
「どこのギルドなのか、何名なのか、代表者は誰なのか……この島と本拠地は距離があるからな、不慮の事態の保険や救助活動を効率的に行うために必要だったんだ」
それも樹海磁軸の開通でいらなくなりそうだ、と衛兵はまた日は高いのにまるで仕事終わりのように腕と背を伸ばし肩を回して気持ちよさそうな声を上げる。
相当雑務に堪えていた様子の衛兵にイリスたちはつい吹き出してしまった。
暢気な衛兵と雑談を続けているうちにほとんど樹海の中と変わらないあぜ道は段々と小石や茂みが取り除かれ整備された道に変わってゆき、やがて開けた草原が現れる。
早足で近づくと丸太で作られた小屋や切り株の間に沢山の衛兵や冒険者たちが集う広場が見える。
空に立ち上る煙と漂ってくる香ばしい匂い、商店街か酒場かと思うような喧騒と人気。
レムリア島に来てまだ一月も経っていない、しかも樹海の一角だというのにほとんど街と変わらない人間の営みにオルヴェたちは息を呑んだ。
「着いたぞ、アルゴノーツ。
ここがベースキャンプ……『幽寂ノ孤島』攻略の最前線だ」
◆◆◆
「碧照ノ樹海までの道、教えてもらったわよ……って何で食べてるの」
「いやぁ、美味しそうな匂いがしたからつい!アリシアも食べるか?」
冒険者用のテントで手続きを終えたアリシアが見たのは鍋を囲って暢気に食べ物を頬張っているオルヴェの姿だった。
ずいっと無造作に差し出された木皿には焼きたての肉やみずみずしい果物が粗雑に盛り付けられており、アリシアは下まぶたをひくつかせた。
……さっき自分が代表して衛兵の詰め所で手続きを済ませてきたのだが、その間にもこの少年は何か食べていたのだろうか。
朝ご飯を食べてまだ一時間もたってないはずだが……信じがたい話だが四六時中動き回る彼にとってはこれが普通なのかもしれない。
「あのねぇ、私たち遠足に行くわけじゃないの。探索前にご飯食べすぎて、魔物から逃げ切れなくても知らないわよ?」
「逃げ切れるし!ん、ありがと」
頭痛と眩暈がしてきた頭を振るい、アリシアは無駄に自信満々な幼なじみの返答をあしらいながら頬についた食べかすを拭ってやる。
……自分が何を言っていたのかも忘れて脳天気に感謝してくる少年を見ているとなんだか毒気を抜かれてしまいそうだ。
「バカやってないで行くぞ」
「わーったよ」
ヴィーザルにつま先で背中を小突かれオルヴェはむぅと鳴くと、皿の上に乗せられた大きめのステーキとそこら辺の草らしき炒め物を胃袋に詰め込んで立ち上がった。
別の冒険者が連れている動物と触れ合うイリスや食べ物を買い込んでいたエドを回収し衛兵から教えてもらった通りに、というか先駆者たちの手で歩きやすく踏みならされ整備された道を進んでいると碧照ノ樹海特有の植物群が見えてきた。
今度こそ『本物の』碧照ノ樹海に足を踏み入れたのだ。
パッと見、磁軸周りの森と何も変わらないように見えるが、足元の踏み固められた草の道と樹海特有の『誰かに見られている』感覚が防具やマフラーの奥にある柔肌に突き刺さる。
まるで巨人の胃袋に自ら入っていくような未知への恐怖と期待に身体を震わせながら、新米冒険者たちは真っ白な羊皮紙に筆を走らせた。
「ここも見覚えないのか?」
『はい、データベースに該当なしです』
「そうかぁ……」
一応取り出したベータに周囲を見せてやったが反応は変わらず、オルヴェは項垂れながらベータの切っ先をくるくると回す。
青いガラスのような光沢のある刃に映る自分も心做しか落ち込んだ表情をしており、そんな自分の頬っ面を叩き胸の中に溜まった重い空気を鼻から吐き出して大きく開いた瞳でベータを見上げた。
「心配すんな!ベータの記憶も必ずどこかにあるはずだ!」
『はぁ……』
「よーし!これからがオレたちアルゴノーツの伝説の始まりだ!気を引き締めていくぞ、ヴィーザル!……ヴィーザル?」
決めポーズを決めながらベータを片手に駆け出そうとしたオルヴェは踏み出した足を空中で止める。
……親友ヴィーザルの返事がなかったのだ、普段ならやる気なさげに答えてくれるか肩を軽く小突いてくるのに。
何かあったのか、と振り向くとヴィーザルは後ろからやってきた重鎧を身にまとった褐色肌の大男に押しつぶされて地面にひっくり返っていた。
「ヴィーーーーザーーール!!!??」
「うぉぉ!?いっけねぇ!大丈夫か!?」
「オリバー!持ち上げ過ぎだ!首が、首っ!」
オルヴェとオリバーと呼ばれた大男は同時に絶叫しヴィーザルを揺さぶり起こす!
重鎧の大男に潰された上に大慌ての男たちに振り回されるヴィーザルの顔色はだんだんと青から土気色に変化し、大男のそばにいたメガネの青年が大慌てでヴィーザルを取り上げると素早く地面へ離してやる。
「げほっ……」
「わ゛ーん!!ゔーぢゃんがぁぁぁっ!!」
解放されて咳き込むヴィーザルのそばで泣きじゃくるイリス、二人を庇うようにアリシアとエドは間に入ると謎の冒険者を睨みつける。
「大丈夫かヴィーザル!?一体誰なんだお前ら!オレの仲間に何しやがる!」
「本当に悪かったって!だから落ち着け!ほら!」
そしてオルヴェはオリバーと呼ばれた大男に飛びかかりまるで子犬のように首の後ろを掴まれ空中でじたばたと暴れ回っていた。
今のところ敵意らしきものは感じられないが、いつ気が変わって武器を抜くのか分からない。
平和に解決するなら止めるべきだろうが流石に友達を潰されても笑って許せるほどエドもアリシアも穏健派でも冷静でも大人でもないのだ。
「うおぉぉおお!ヴィーザルの仇だ……あれ?」
仲間の敵討ちだと不安定な体勢で暴れていたオルヴェの頭上が不意に暗くなる。
魔物かと思った影の正体は視界一面に広がるのは深い紺碧の夜空だった。
「ふぅ、君も落ち着いたみたいだね」
「えっと、誰だ?」
目の前に広がる夜空に困惑していると、その闇の中から先ほどのメガネを掛けた青年が困り顔で出てきた。
よく見れば肩にはアリシアと同じ星術器らしき銀色の機械を背負い、着用しているローブにも金や銀の星模様が刺繍されている。
妙に心癒される夜空はメガネの青年の手のひらから出ているらしく、集められた青や緑の光を放つエーテルがコーヒーに入れたミルクのように溶けて墨色の靄に変換される様はアリシアにも見せてもらったことのない不思議な光景だった。
「改めてウチの連れがすまなかった。
僕はマルコ、そしてこっちが相棒のオリバーさ」
マルコは子供っぽく口を開けて星術を見入るオルヴェに安堵するように頷き、肩の星術器を操作すると視界を覆っていた黒い闇がカーテンのようにサッと閉じられる。
……そして青空の広がる頭上からオリバーと言う名前の大男がニッコリと歯を見せて親指を立てた。
◆◆◆
「いやぁ、まさか俺も探索早々後輩を撥ねるとは思ってなくてな!」
「……」
「ヴィーザルまだ怒ってんのか?」
伸ばされる親愛の手のひらにもヴィーザルはぷいとそっぽを向くとオルヴェの方へ駆け寄ってしまい、恨みがましい光を堪えたアーモンド色の瞳にオリバーとマルコは困り眉になる。
……オリバーとマルコと名乗った二人組の男はオルヴェたちと同様に冒険者であり、しかも碧照ノ樹海の最前線をたった二人で行く熟練者だったのだ。
最初はヴィーザルに渾身のシールドバッシュをお見舞いされたのもあって、この二人組を警戒していたオルヴェたちだったがマルコの弁明と大きな身体を出来るだけ小さく丸めて必死に謝ってくるオリバーの少し愉快な姿に少しずつ心を開いていった。
……ヴィーザル以外は。
「ごめんなさいねオリバーさん、マルコさん。
ヴィーザルもへそ曲げてるだけだから気にしないでいいわよ」
「すまないね、お詫びになるかは分からないけれど君たちの探索を手伝わせてもらえないかな」
「えっ?」
予想外の発言に目を丸くしたアリシアにマルコがニコリと笑みを浮かべてみせる。
「見たところ、君たち新人さんみたいだし僕たちの知識が役に立つかもしれない」
「勿論探索で出た素材は全部お前たちが持って帰ってくれていいからな!
……実のところ、今俺たち持ち合わせがなくてな」
後頭部を掻きながらオリバーは少し恥ずかしそうな小声で呟くとわざとらしいウインクを飛ばしてくる。
オリバー渾身の茶目っ気にマルコは肩を震わせて吹き出し、オリバーはわざとらしく咳払いするとアルゴノーツの面々にちらりと目配せした。
「ダークエーテルを使う力量に素材は全部こちらの取り分……ま、悪くはない条件ね」
「ダークエーテルって?」
「さっきの暗い影よ、大気中のエーテルを操作して擬似的な……要は精神安定効果が見込める技よ」
無言の視線に促され、オルヴェたちは二人から少し離れた場所でモルモットのように引っ付いて集まると相談し始めた。
……アリシアの分析によればマルコは(現時点では)彼女以上に”手慣れ”の占星術師であり、オリバーの方も未知数であるがそれなりに体躯の良いヴィーザルを簡単に吹っ飛ばせる男だ。戦力としては十分だろう。
「そんなに凄腕なら是非よろしく──」
「嫌だ」
「ええっ!?」
ヴィーザルは青い目を見開いて驚くオルヴェの耳を思いきり掴むとそのまま後ろへと引っ張って連れて行く。
痛がるオルヴェを連れて全員から少し離れた位置にやって来たヴィーザルは自分を困惑気味に見上げてくる親友に小声で囁いた。
「見た感じ、あいつらの装備はそれなりに高級品だ。手入れも手間がかかるし、メガネの方の器具は占星術ギルド支給の試作品だぞ」
「え、どういう事?」
「金持ってないなんてウソっぱちだって事だよ。どういうつもりかは知らねぇけど人にぶつかっておいて節約しようだなんてどういう魂胆してんだ」
遠くにいるオリバーとマルコを睨みつけながらヴィーザルは吐き捨てる。
賞金稼ぎであるヴィーザルの言葉を確かめる為にオルヴェも彼らをそっと観察してみたが、確かによく見れば細かい装飾や複雑そうな機構はどこか高級感があるように見える。
……少なくともそれなりの金は持っているようだ。
「うーん……でも良いんじゃないのか?着いてきてもらっても、オレたちもこの樹海のことよく分かんないんだし」
「はぁ!?」
「頼む!この通り!この埋め合わせは後でちゃんとするからさ!」
三秒ほど悩んであっさり言い切ったオルヴェにヴィーザルは信じられないと言わんばかりに盛大にため息を吹きかけて頭を振った。
……確かにヴィーザルの怒りもわからなくもない、パーティメンバー以外の人間に対して警戒心の強い彼のことなら尚更だ。
だがオリバーとマルコも反省しているようだし、それに先輩冒険者の手助けをタダで受けられるというのなら話は別だ。
お金がないと言ったのも何か事情があるのかもしれないし、それならお金に見合うだけ働いてもらえばいいだろう。
「……ぁあ分かったよ、クソッ!」
「よし!後でなにか奢るから気分直してくれよ、ヴィーザル!──あいてっ」
「どうどう」
ヴィーザルはしばらく振り上げた拳を震わせていたが、やがて言葉を吐き捨てると拳を緩め自分の髪をかき上げた。
その瞬間、両手を合わせて懇願していたオルヴェの表情がパアッと明るくなって青い目がキラキラと輝く。
そのまま「ありがとう!」と今にも飛びついてきそうだったのでヴィーザルは先手を打ってデコピンしてやった。
……真面目なエドがすぐに叱ってくるが、オーバーリアクションで情けない悲鳴を上げる親友に少しだけ胸の中がちょっと黒く爽やかな物で満たされる。
「てなわけで、よろしくな!オリバー、マルコ!」
「おう、頼むぜ!ところでお前たちの名前は?まだ聞いてなかったな」
「オレはオルヴェ!そしてこっちはオレのギルド『アルゴノーツ』の仲間たちで──!」
オルヴェの言葉を聞いたオリバーとマルコは嬉しそうに破顔し、伸ばされたオルヴェの手のひらをしっかりと握りしめた。
◆◆◆
逃げようとする森ネズミの頭蓋を槍が貫き脳混じりの鮮血が若草の上に飛び散る。
飛び出してきた魔物との戦闘を終え、イリスは深く息を吐くと力を込めて槍を引き抜いた。
「──っ!オルヴェくん!ベータさんは?」
「どこだ……!あ、あった!」
オルヴェは戦闘中に手からすっぽ抜けて吹っ飛んでいったベータを探しに行ったらしく、茂みの中で揺れる赤いマントを不安げに見守るイリスだったがやがて少年の手に蒼い剣が掲げられほっと一息ついた。
「……マスター、私は飛び道具ではありません」
「知ってるってば!でもあいつら力入れて斬らないと刃が通らないんだよ!」
「剣技は力だけではありません、相手の筋骨格に沿って斬りつければ現在の半分以下の力で無力化できます」
「分かってるっつーの!!」
相変わらずベータ特有の切れ味鋭い言葉が飛んできたのでオルヴェは口をとがらせて反論する。
あのバッタの硬さをベータも身を以て経験しているのにこの冷たい態度は一体どういうつもりなのか。
……碧照ノ樹海に生息する魔物は東土ノ霊堂と比べて桁違いの強さを持っていた。
同行しているマルコからこの迷宮は東土ノ霊堂があった島『はじまり島』の魔物と同じと思うなと忠告された通りエドのガード越しでも衝撃を感じるバッタの強烈な脚撃や、苦手な虫かつ集中力をかき乱す羽音を放つアリシアの天敵シンリンチョウ。
馬車くらいはありそうな狒々に奇襲された挙げ句ヴィーザルの投刃を弾かれた時は正直オルヴェも肝が冷えた。
だが先日の守護獣との戦闘もあってか、この程度の強さならまだ長年の付き合いで培った連携でも太刀打ちできたし本当に危ない時はオリバーとマルコが助けてくれた。
(例えばオルヴェが何を血迷ったのか自信満々に巨大なクマに突撃しようとした時に強制確保してくれたり!)
……しかし、東土ノ霊堂の時と違うのはオルヴェの残影が全く出てこないことだった。
「お前もあのキラキラするやつ出し渋るなよ!」
「キラキラ、残影ですか。あれの発動は持ち主の資質によるもので私は補助に過ぎません。単なる知識と練習不足かと」
「だ、大丈夫だよオルヴェくん!そのうち出来るようになるって!」
ムキになるオルヴェと宥めるイリス、そして淡々と痛いところを突き続けるベータ。
……オリバーとマルコの前では喋らないくせに、こうやって仲間だけになった途端あれこれ文句をつけてくるのだからオルヴェからしてみたら溜まったものじゃない。
相も変わらず場所を選ばず言い争う彼らの姿にアリシアたちも少し慣れてきたが、やはり頭痛の種であることに代わりはない。
「オルヴェも相変わらず飽きないわね……」
「僕たち、ちゃんと世界樹の麓に辿り着けるんですかねぇ」
頭を悩ませるアリシアとは対照的にまるで子どもの喧嘩でも眺めているかのように落ち着いたエドに小休止のコーヒーを勧められありがたくカップを受け取る。
先程まで内部で羽音が反響していた頭を癒すようにゆっくりと黒い飲料を味わいながら、アリシアは改めて碧照ノ樹海を眺める事にした。
しばらくしてトテトテと小走りで帰ってくるイリスに続き不満を垂れながらオルヴェも茂みから戻って来た。
「オレを選んだのはベータだろ……少しくらい大目に見てくれよなー」
「強くなるなら毎日特訓しろっておじいちゃんが言ってたし、オルヴェくんも私と一緒に特訓する?」
「うぐぐ……やっぱそれしかないのか……?」
「まぁベータの話もあながち間違っちゃいないし許してやれよ」
「えーーっ!!ヴィーザルまでベータの肩持つのか!?」
戻ったのに突然親友に背中を撃たれたオルヴェは大慌てでヴィーザルにしがみついたが、ヴィーザルは狼狽える親友の脳天に手刀を叩き込んで引っ剥がした。
「お前だってさっきアイツらの肩持っただろ」
「あ、あれは別件だろ!」
ヴィーザルが少し意地の悪い笑みを浮かべながら先ほどのオリバーとマルコの件を引き合いに出してやると、流石に能天気なオルヴェも図星を突かれて堪えたのか眉をひそめ目を逸らそうとする。
「マスター、中立的な観点の私から申し上げると本件も大して変わらないかと」
「ちょっ!」
「どうするオルヴェ?たまには労ってくれてもいいんだぜ?ほら!」
「わはははっ!!マジでやめろってぇ!!」
ベータからも鞘越しに追いうちされ涙目になるオルヴェ、その両肩を掴んでヴィーザルは先ほどの仕返しだと言わんばかりに鎧の隙間に手を突っ込んでくすぐりだした!
「あの二人、大丈夫かなぁ……?」
「ふふっ、オルヴェくんとヴィーザルくんがいつもやるみたいにベータさんともすぐに仲良しに戻れますよ」
悲鳴をあげるオルヴェとのじゃれ合いを心配そうに見守るイリスに、エドはあっけらかんとした様子で答えると、悲鳴をあげるオルヴェを指差す。
戦闘では息切れ一つしなかったのに顔を真っ赤にして遊ぶ幼なじみ二人の姿にイリスは胸を撫で下ろしたが、隣にいたアリシアは何がツボに入ったのか思わず声を出して笑い転げる。
「何やってるのよあなた達!ちょっとベータも!はははっ!」
「あははっ、本当だ!」
どうやら見ていない間にベータも参戦したらしく、青色の刃を細い鞭のように形状を変化させてオルヴェをくすぐりまくっていた。
オーディエンスと助っ人の出現にヴィーザルは悪い笑みを浮かべ、更にオルヴェへの仕返しを加速させる!
「君たち、そろそろ出発するかい?」
「うおっ!?」
不意に頭上から影が差し急に話しかけられたヴィーザルは肩を跳ねさせる。
喉から心臓が飛び出そうなくらい驚きながらも声の方に目を向けると、いつの間にか近くにいたマルコがこちらを見下ろしていたのだ。
ヴィーザルの下にいるのは二人がかりでくすぐられまくったお陰で全身汗だくで赤くなってるオルヴェだし、よく見ればベータは既に剣に戻っており我関せずという風に沈黙していた。
……逆光でメガネを光らせたままマルコは静かに佇んでいる。その表情から、何を考えているのか窺い知る事はできなかった。
「……」
「仲の良いことは素晴らしいことだ!友達は大事にしろよ?」
石化したように微動だにせず沈黙しているヴィーザルにオリバーは頷くとぐったりしているオルヴェを起こして、寄ってきたエドに渡してやった。
あまりはしゃぐと体力が無くなるぞとだけ忠告し、オリバーとマルコはこれまでで一番温かい目で新米冒険者たちに微笑みかけると普段と変わらない足取りで先への道を促してきた。
「……じゃあ、行くか」
「オレ、穴があったら今すぐ入りたい」
……先ほどの一件でアルゴノーツの空気は微妙なものになっていた。
いつもは無駄に元気なオルヴェも恥ずかしいやら情けないやらですっかり意気消沈したらしく、俯いたまま赤いマントにくるまって歩いている。
……なんだか大きなコウモリみたいで少し可愛いなと、アリシアは不貞腐れたオルヴェをチラチラ見ながら思った。
「シャベルになりましょうか、マスター」
「うぅ……もういい」
ベータの皮肉にも今のオルヴェには言い返す元気がない。
折角聖剣に選ばれた勇者としてカッコよく振る舞おうとした矢先にとんでもないものを見られてしまった今、オルヴェは一刻も早くこの醜態を挽回したい気持ちでいっぱいだった。
何でも良いから魔物の一匹でも飛び出してきてくれないかと願いながら、オルヴェたちは樹海の奥へと進んでいった。
◆◆◆
「……あ!もうすぐ地図完成しそうだね!」
「お、本当だ!」
「僕たちって今日一日でこんなに探索したんですね」
その後も探索と戦闘を繰り返し碧照ノ樹海がオレンジと赤に染まり始めた頃、地図を覗き込んでいたイリスが不意に明るい声を上げる。
探索当初は真っ白だった羊皮紙の上にはオルヴェが書いた地図や仲間たちのコメントで埋め尽くされておりもうほとんど完成していたのだ。
「後少しだから、そこまで描いて終わりにしない?」
「さんせーい!」
「オリバーさんとマルコさんにも見てもらいましょうよ!」
後ろからついてきていたオリバーとマルコを手招きし地図を見せると彼らもここまで早く書けるとは思っていなかったらしく、大層驚きつつまるで自分のことのように喜びをあらわにした。
最後まで書いてから帰りたい旨を伝えると快く了承してくれたが、最後の広間に足を踏み入れるとマルコが少し寂しそうに声をかけてきた。
……彼が指さす泉の対岸には下層へと続く階段があった。
「君たちは十分強くなった、ここから先は僕たちなしでもきっと大丈夫だよ」
「最初見た時はちょいと心配だったが、杞憂に済んで良かったぜ」
「どういう意味だよ~!」
別れの寂しさを吹き飛ばすような軽口をたたくオリバーにオルヴェがちょっとふてくされ気味に言い返し、その光景をマルコや仲間たちが微笑ましく見守る。
夕日差す樹海の中で和気藹々とした雰囲気が流れていた……はずだった。
『不明な生命反応が二つ、こちらに向かってきます』
「っ!?」
突然ベータが警告を発し、直後に階段の下から鉄を叩きつけるような轟音が響き渡る!
魔物かと一行が身構えた瞬間、階段から飛び出してきたのは大怪我を負った血塗れの衛兵だった。
「うわあっ!!?」
「たっ、助けてくれっ!!」
負傷を省みず必死に登ってきたのだろう、血まみれの衛兵は駆け抜けた勢いのまま背負っていた別の衛兵ごとオルヴェたちの前に倒れ込んだ。
全身で息をする傷だらけの衛兵の鎧はあちこち砕けており、右の足に至っては紫色に腫れ上がり筋繊維と浮き出た血管が激しい痙攣を繰り返すグロテスクな光景に喉の奥からすっぱいものがこみあげてくる。
オリバーとマルコは立ちすくむオルヴェたちを押し退け衛兵たちのもとへ駆け寄るとメディカや包帯を片手にすぐさま介抱し始めた。
「大丈夫か!?何があった!」
「ぅう、赤毛の、怪物、だ……!!」
「怪物……!?」
意識のある衛兵もオリバーの呼びかけに必死に応答しようとしているようだが、肺がやられたらしく激痛から来るうめき声と血混じりの咳のせいでマトモな受け答えにならない。
「わ、私たちも手当を──っ!」
「イリス!?」
「どうした!?……っ!」
先ほどまで平和で静かだった緑の樹海は一瞬のうちに赤黒い鮮血に彩られた惨状へと変貌した。
最初に我に返ったイリスは首とおさげをぶんぶん振り回してすぐにオリバーたちがまだ診ていない衛兵に駆け寄り──息を呑んだ。
助けを求めてきた衛兵の応急処置を終えたマルコがイリスの方へすっ飛んできたが、血溜まりに倒れて微動だにしない衛兵を見るなり眼鏡越しの眉間に険しいシワを寄せる。
「……この人はすぐに運ばないとマズい」
「アルゴノーツ。俺たちは衛兵を連れてベースキャンプに戻る、お前らも用心しろよ!」
オリバーは意識のない衛兵を背負って立ち上がり、動ける衛兵に肩を貸したマルコは深呼吸をして星体観測を発動させる。
「!オレもついて──」
オルヴェが飛び出そうとするとオリバーの大きな手のひらが頭を撫でくりまわした。
見下ろす男は赤黒い液体の付いた顔を軽く拭うとゆるく首を左右に振り笑顔を浮かべる。
最初に出会ったときのような豪快で快活な破顔ではない。
強く閉じられた真一文字の口から同行を許可する言葉は絶対出ないだろうし、三白眼の瞳に宿る強い意志は生半可な覚悟を許さないだろう。
……しかし、厳しい表情とは裏腹に頭に乗せられた手の動きがずっと優しい事にオルヴェは気がついた。
「大丈夫だ、コイツのことは俺達が責任を持って送り届ける。だからお前らは気にせず探索を進めてくれ」
「……うん」
オルヴェが小さく頷くと、そのまま二人は再度手を振って出口に向かって走っていった。
……残されたのは異様な静けさと錆鉄のような饐えた臭気だった。
「…たぶん、あの人もう」
アルゴノーツが階段前で呆然としていると、イリスの愛らしい声が聞こえた。
あの人、とは恐らく背負われていた方の衛兵だろう。
丸っこいオレンジの瞳は夕日に照らされぼんやりと輝き、イリスらしくない冷徹な視線が衛兵たちが進んでいった茂みを黙って見つめていた。
誰も……それ以上何も言わなかった。さっきまでここで倒れていた衛兵の紫色の唇や土気色の肌、濁った白の眼球と動かない胸、温もりが今も忘れられない。
「この下に一体何があるんだ……?」
胸の奥底で湧き出した『それ』を絞り出すように溢れたオルヴェの言葉に誰も、ベータも、何も答えなかった。
──答えを持ち合わせていなかった。
その日、マギニアに戻るアルゴノーツの足取りは重かった。
段々と暗くなっていく空の下、冒険者たちは無言で列をなしてマギニアへと帰投し湖の貴婦人亭へ帰るまで誰も言葉を発しなかった。
明かりの漏れる扉を開けると珍しく起きていた店番の少女が気だるげに出迎えてくれたが、普段と様子の違うおかしいアルゴノーツの姿に首を傾げる。
「ん?何かあったの?」
「色々。夕飯を頼んでもいいかしら」
アリシアが赤く汚れた顔を拭いながら手短に夕食の準備を頼むと、店番の少女は興味をなくしたのか「ふぅん」と間の抜けた声で頷いた。
……今のアルゴノーツに何があったかのを答える気力は既になかった。
熱々のシャワーで今日の汚れを流し、用意された温かい夕食を囲んで、いつものように談話する仲間たちを前にしてもオルヴェは心ここにあらずといった様子だった。
「……」
「ちょっと、オルヴェくん」
「……ん、あぁ」
「さっきからぼんやりしてますけど大丈夫ですか?」
机に肘をついて昼間のことを考えているとエドが咳払いをして肩を叩いてくる……考えるのに集中しすぎたらしく、冷めたハンバーグには無数のフォークの穴が空いていた。
我に返ったオルヴェは喉に詰まりそうな勢いで料理をかきこみ始め、ガチャガチャと食器の触れ合う音が静かな食卓に響く。
……既に半分以上食べ終わった仲間たちのペースに追いつこうとしているのか、いつものように大好物を前に大喜びで頬を膨らませて食事するオルヴェの姿はそこになかった。
食べ物を飲み込みながらオードブルのポテトサラダに手を伸ばしたオルヴェだが突然皿が浮き上がり、見上げた先にはヴィーザルの不機嫌そうな瞳があった。
「あ、おい!」
「昼のこと、気にしてるのか」
「……まぁ、少し」
どこか心配するような表情のヴィーザルの指摘にオルヴェは覇気のない声で答えると皿に伸ばした手を引っ込めら。
なんてことはない会話のはずなのに今日だけは答える気になれなかった。
そのままテーブルの下で組んだ手を見つめているとヴィーザルはため息をついて、皿に盛ったポテトサラダを差し出してきた。
「お前みたいなのに言うのも少しアレだが、ああいうのは慣れるしかない。これから先キツイぞ」
「分かってるよ……こういうのは今日だけだって」
そう言ってオルヴェは笑ってみせると、親友から差し出された皿の料理を口に運ぶ。
賞金稼ぎのヴィーザルからしてみれば、今の自分が抱くこの気持ちはとっくの昔に通り過ぎた物なのだろう。
……よく考えてみればアルゴノーツの中で一番自分が『こういうこと』に慣れていない。
それがすごく情けないことに思えてきて、オルヴェは折角の夕食の味や隣に座る親友がどんな顔をしていたのかはっきり分からなかった。
……窓から見える光が少なくなっていくにつれ食堂にいる冒険者たちも姿を消し、アルゴノーツの面々も食べ終わった者から自然と自分の部屋に戻っていった。
もう席にはオルヴェとデザートのプリンを食べるイリスしか残っておらず、たまにお裾分けされてくるデザートを頬張りつつオルヴェたちは夕食を食べきった。
「オルヴェ、少しいい?」
「ん?」
オルヴェがイリスを女子部屋に送り届けて帰ろうとしたその時、部屋で本を読んでいたアリシアが顔をひょっこり覗かせる。
くせっ毛の橙髪を一つにまとめて、所々にフリルのついたゆったりとしたワンピース風の寝間着を着た少女は単細胞で朴念仁なオルヴェの目から見ても中々愛らしい。
イリスを部屋にしまったアリシアはオルヴェの前でしばらくモジモジしていたが、やがて少し裏返った可愛らしい声で話しかけてきた。
「今日の探索の事なんだけどその……む、無理しないでよね」
「……それだけ?」
「こ、これ以上何を言えばいいのよ!無事でよかったわねとかっ!?」
ぽかんとしたアホ面のオルヴェの答えが気に食わなかったのか、アリシアはさっきまでの淑やかな様子を一変させた。
顔をゆでダコみたいに真っ赤にしてさっき言ったことを否定したり、ああでもないこうでもないと早口で喚き立てたり一人で盛り上がっている。
まるで騒がしい子犬みたいな、普段の冷静な彼女からはは絶対想像できない姿にオルヴェはぽかんとしていたがやがてあまりの豹変ぶりに思わず腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしいのよ!」
「いやだって、アリシアの顔見たら安心してさ!」
「もう……!」
笑ったのは悪かったが安心したのは本当だと言ってやるとアリシアは腕を組んで唇を尖らせる。
……そっぽを向いた彼女の顔が子供っぽく拗ねているようにも俯いた金色の睫毛が泣いているようにも見えて、オルヴェはアリシアの隣にそっと寄り添った。
「アリシアはあの怪我した衛兵、怖くなかったか」
「まぁまぁ堪えたわ、死んでいく人間を間近で見るなんて初めてだし……」
「……オレもだ」
大きく間を取って、オルヴェも頷く。
アリシアは何を返すわけでもなく、続きを促すように青年の背中を撫でた。
「目の前にいるのに、助けられない人がいるって……こんなにも辛いんだな」
今にも消えそうな声がアリシアに、そしてなによりオルヴェ自身に言い聞かせるようにこぼれ落ちる。
「……ええ、とても辛いわ」
これまで一緒に過ごしてきた幼なじみの弱々しい姿にアリシアは背中を撫でていた手をオルヴェの手に重ねた。
……だが、思ったよりも大きな手が握り返してきてアリシアは耳まで真っ赤になってロケットジャンプみたいな勢いで立ち上がった。
乗せられた手を無意識に握っただけなのに、突然飛び跳ねられたオルヴェは廊下でひっくり返り目を白黒させる。
「あっ!明日も早いしもう戻るわね!おやすみ!」
「お、おう!?おやすみアリシア」
そのまま逃げるように部屋に飛び込んでいくアリシア、耳まで赤くなった少女をオルヴェはひっくり返った姿勢のままで見送った。
「……戻るか」
しばらくしてオルヴェも起き上がり自分たちの部屋に戻り、相部屋のヴィーザルたちの寝息と月明かりだけの静かな相部屋のベッドにオルヴェは身をねじ込んで目を瞑る。
(……)
……オルヴェが目指していたのは誰でも助けるしどんな目にあっても傷つかない、そんな英雄。
それを目指して冒険者になったのに今日突きつけられた現実に対し、十六年間胸の中で思い描いていた理想は全く役に立たなかった。
今だってどれだけ手当しても壊れた蛇口みたいに血が止まらない焦燥感や、触れた傍から体温と世界の境界が無くなっていく身体の温度が忘れられない。
……仲間や自分もそんな目に遭うかもしれない、と一瞬でも怯えてしまったことも。
オルヴェは頭までシーツを被って丸くなる。
明日、ベースキャンプに行って確かめればいい。
一眠りすればきっと受け答えの出来なかった衛兵もきっと元気になっているはずだから。
◆◆◆
「オルヴェくん!起きてください!」
「んが……」
目覚まし時計のような呼び声に意識を呼び戻され、オルヴェは眩しそうに目を開ける。
上下が反転したエドは茶色の瞳を細めて笑うと「朝食ができてますよ」と、くるりと白と赤のエプロンを翻し下の階へと降りていった。
……今日の朝食はハム付き目玉焼きとパンだろう。
エドがまとった残り香にオルヴェは鼻をひくつかせるが、やはり昨日から機嫌の悪い腹の虫は鳴こうとしなかった。
「寝相の悪さは睡眠の質に直結しますよ、マスター」
「うるさぃベータ……」
机の上から小言を言ってくるベータにも言い返しつつ、オルヴェもベッドから転げ落ちた身を起こすと大きく伸びをして体を軽く鳴らしながら寝間着を脱ぎ始めた。
「みんなおはよー……」
「腹出して寝てんのによく風邪引かねぇよな、お前」
「んー」
腹丸出しでベッドから落ちていたのが悪かったのか、はたまたベータに指摘された通り寝つきが悪かったのか、まだ寝ぼけながらオルヴェが下の階に降りると既に探索準備の整った仲間たちがそれぞれのんびりしながら食卓を囲んでいた。
「今日の探索だけど……あら?」
「どうかしましたか」
もそもそと朝食を食べだしたオルヴェの隣に座るアリシアは一晩寝て吹っ切れたのか、いつも通り昨日の晩に考えておいたであろう探索計画を喋っていたのだが不意に言葉を止める。
どうしたのだ、と固まったアリシアの視線の先を身を乗り出して覗くと窓の向こうの宿屋通りを沢山の冒険者や衛兵の団体たちが埋め尽くしている異様な光景が広がっていた。
名高いギルドからオルヴェたちと同じような新米ギルドまでぎゅうぎゅうに集まってどこかを目指す姿は一般市民でも大事だと分かる様相であり、その行軍はまるで最初にレムリア島に着いた際の演説の聴衆を思い起こさせる。
「なぁちょっと!そこのおねーさん!」
「……ん?」
一体何があったのか、とにかく事情を把握したくてオルヴェは近くに座っていた冒険者に話しかける。
……その冒険者は宿屋というのに、探索には不向きな分厚い鋼の鎧を着て、背負っていた三角形の盾や腰に下げた剣は鋭く輝き、まるで怪物か何かを退治しに行くような格好をしていた。
「……何かあったのか?」
「知らないの?司令部から碧照ノ樹海に出た危険な魔物を退治しろってミッションが出たのよ」
最近は被害が多かったからね、とどこか他人事のようにぼやきながら冒険者はコーヒーを飲み干すと足早にオルヴェたちの前から立ち去る。
店を出た冒険者は待っていた仲間の元へ駆け寄ってすぐに冒険者たちの列に入ってしまい、その姿はどこにも見えなくなってしまった。
──『碧照ノ樹海』。
女性が残した言葉はオルヴェたちの幼い顔を青ざめさせ、脳裏には昨日の夕暮れの光景が呼んでもないのに浮かびあがってくる。
「もしかして、昨日の……」
「……とにかく行ってみよう」
オルヴェは怯えて身を縮ませるイリスの肩を叩いて励ますと、胃袋にエド特製の朝食を突っ込み湖の貴婦人亭を飛び出して冒険者たちの大行進に飛び込んだ。
……首を上げて見据えた司令部の尖塔は太陽を背に黒い輝きを放っていた。
長い行列に並び、ジリジリと太陽に焼かれ、司令部に辿り着いた頃には他の冒険者たちは既にミッションを受けたのか、衛兵も冒険者の姿もまばらでいつもは人混みの中を忙しそうにあちこち歩き回って指示を飛ばしているペルセフォネ姫もすぐに発見できた。
「誰かと話しているみたいですね」
「あれって……」
「──では、よろしく頼む」
「任せてください、タルシスの樹海の事なら何か力になれる筈ですし……」
だが先客がいたらしく、ペルセフォネ姫はウェーブのかかった暗い赤髪の女剣士と話し込んでおり、凛々しい横顔や凛とした声は普段にも増して厳めしく重苦しいものになっていた。
「……樹海、助言、どうやらミッションの話らしいぞ」
「もっと近くで聞いてみましょ、何か知ってるのかも」
聞き耳を立てたヴィーザルの情報を元に、オルヴェたちは柱の陰にくっついて隠れて謎の女剣士を観察する事にした。
……踊り子風の軽装に反してその褐色の体は鍛えられており、難しそうな顔で言葉を紡ぐペルセフォネ姫を前にしても堂々とした佇まいや体中の古傷の跡は彼女が歴戦の冒険者であることを示していた。
「ちょっと待てよ、あの人どこかで──」
腰に下げた珍しい形の長剣と二の腕には赤い竜の入れ墨、それらに見覚えがあったオルヴェはあっと声を上げた。
「も、もしかして……ドラゴンキラーのウィラフさん!?」
「え!?……もしかして私を知ってるの?」
突然、背後から名前を呼ばれた女性──ウィラフは堂々とした佇まいからはあまり想像できない素っ頓狂な声を上げて振り向くと、自分の名前を呼んだであろう冒険者たちを丸くなった目で確認するように見渡した。
「誰ですか、データベースにありません」
「知らねぇの!?オレが子供の頃にタルシスで活躍してた冒険者で、有名ギルドの人と一緒に竜を退治したんだよ!」
「今は世界各地を旅しながら竜退治してるって話は本当だったのね……」
「そうですか、対象IDを新規登録します」
子供の頃に聞いた有名人を目の前に柱の陰からぞろぞろ出てきて興奮するオルヴェたち、対照的に腰に下げられたベータは冷ややかな声でウィラフを訝しむ。
「もしかして、君たちもタルシス出身なの?」
「そうです!オレたち冒険者ギルドのアルゴノーツっていって……!」
「ちょっと!今ウィラフさんはペルセフォネ姫と話してたでしょ!」
「あ、そうだった!ごめんなさい……」
まだ新しい装備をまとった同郷出身の新米冒険者たちの姿にウィラフはニコリと笑みを浮かべ、気にしていない首を振ってやる。
はしゃぐアルゴノーツの姿にペルセフォネも表情を和らげると集団の中で少し遠い場所にいたヴィーザルに視線を送る。
……こちらに気が付き目だけ向けてきた白髪の青年にベータ──レムリアの宝剣の情報はまだ見つかっていない、と剣に選ばれた青年を見ながら首を振ってみせる。
会得した、と言わんばかりにヴィーザルは肩を竦めオルヴェに耳打ちするのを見届けペルセフォネは空気を改めるように咳払いした。
「アルゴノーツよ、汝らもミッションを受けに来たのだろう。ウィラフ殿、よければ彼らにもあの樹海の事を教えてやってくれ」
ペルセフォネに命じられウィラフは任せてほしいと胸を張ると、先ほどの後輩たちを見守るような人懐っこい笑みから感情の消えた真剣な表情になってアルゴノーツに向き直った。
「さて、アルゴノーツのみんな。君たちもタルシス出身なんだよね?
……君たちはお父さんやお母さん、知り合いの人から『獣王ベルゼルケル』って話は聞いたことある?」
「獣王?」
聞き慣れない単語にオルヴェは首を傾げ唇を噛んで思考を巡らせる。
……昔から冒険者の酒場にこっそり忍び込んでは冒険の話を聞いて回っていたから、多分そこで聞いた中にも獣王ベルゼルケルという話もあったはずである。
思い出そうと四苦八苦しているオルヴェや互いに顔を見合わせて話し合う仲間たちの中で、一人エドだけは唇を真一文字に結んでため息を吐いた。
「子どものいる冒険者が、その『獣王ベルゼルケル』に襲われて命を落とした事故がたくさんあったって聞いてます……僕の周りにもそういう子がいっぱいいました」
「!まさか……君のご両親も?」
やってしまった、と言わんばかりにウィラフは口を小さく開いたまま硬直し周囲の空気が一気に凍りつく。
申し訳無さそうに縮こまるウィラフやぴくりと表情が固まったペルセフォネに向かって、エドは慌てて首を横に振って笑ってみせた。
「いえ!僕のは違いますよ。
……ただ、僕と同じように親のない子どもたちの中にはそういう子も結構いたんです」
だから気にしないで、と話の続きを促すエドとそれに応えるウィラフたち。
だがオルヴェだけは進んでいく言葉の中、まるで一人別の世界に取り残されたような感覚に陥っていた。
耳から入ってくる声は何枚もの布越しに聞いているかのようにくぐもって、背中や手のひらにはじっとりとした汗がまとわりつく。
高熱の時みたいな寒気がする。鼻の奥、呼吸器の奥から異様な匂いがする。
鎧の下で無意識に強張った身体はまるで死──。
「オルヴェ?」
「!」
不意に響いた呼び声に、オルヴェは背筋を伸ばしバッと頭を上げる。
そこには話を中断したウィラフと突然動きを止めてしまったオルヴェを心配するアリシアの姿があった。
なんでもない、と頭を振って思い出した光景を振り払うもウィラフはオルヴェが何を考えていたのか分かっているのだろうか、眉間にシワを寄せて言葉を続ける。
「長々話したけど大事なのは一つ……絶対に無理はしないほうがいいってこと、もし自信がないのならこのミッションはパスするべきよ」
「!それは……」
──それは困る!
だって自分はベータを世界樹の麓に連れて行かなければならないし、なにより世界一の英雄になるためにはこんなところで止まっているわけには行かないのだ。
だが言い返そうとしてもいつものように言葉がスラスラと思いつかなくて、喉の奥に詰まったような感覚に呆れ苛立ちながら頭を掻くと、対話を静観していたペルセフォネがオルヴェの名前を呼んだ。
「オルヴェ、そしてアルゴノーツよ。
事を急いでは元も子も無くす……此度のミッションは大きな危険が伴う、一度汝らで相談し合うべきだろう」
ペルセフォネ姫までどうして、と言おうとしたオルヴェの口はすぐに閉じられた。
こちらを見つめてくるペルセフォネの碧眼は心を射貫くように鋭く澄み切って、心配とも忠告ともつかない色の瞳に映っている自分の表情があまりにも必死そのものだったから。
「……っ」
「分かりました……オルヴェくん、いこ?」
伏し目になってしまったオルヴェの肩をイリスがそっと寄り添って引っ張った。
そのまま仲間に連れられオルヴェは力なく司令部から歩き去って行った。
◆◆◆
司令部を飛び出したはいいもののどこに行く宛もなく、かといってミッションのことを話し出す気にもなれなくて、アルゴノーツは司令部前の高台でぼんやり街と青空を見つめていた。
「マスター、貴方は死が怖いのですか?」
「え」
オルヴェは腰に下げたベータを二度見した。
普段なら無闇矢鱈に話すことを厭い、普通の剣のフリに専念しているベータが話しかけてきたのだ。
……しかも人通りの多い街中で。
「最近のバイタルや脳波から算出した結果、貴方は『死』という単語又はその意味を含む物に強く反応しています」
「それは……別にミッションと関係ないだろ!」
自然と荒ぶりそうになる声と語気を喉の奥に無理矢理引っ込めて、手で壁を作ったオルヴェはベータを睨みつける。
だが今回のベータは普段のように冷酷無慈悲にオルヴェの弱点や矛盾点を詰るわけでもなければ、愚かと一笑し無視するわけでもなかった。
怒りとも恐怖ともつかない何かをこらえる様にギュッと唇を結んだオルヴェに見つめられ、何かを考えるようにしばらく黙ってから無機質な声で問いかけてきたのだ。
「質問です、マスター。
貴方は自らの死を目前にしても、私を手に取り戦えますか?」
「!……」
冷たい声はいつもと違ってオルヴェを試しているようにも、何かに縋っているようにも聞こえた。
……自分は英雄なんだから勿論戦えると言いたいのに、どういうわけか今のオルヴェには答えられなかった。
ただ一言「オレは戦える」と言えばいいのに。
仲間たちから向けられる視線やベータの放つ燐光、そして自分の口から出てきた情けない一息にどうしようもない気持ちで一杯になって、首を縦に振ることすらまるでギプスで固定されたみたいに重くて固い。
アリシアやイリスが話しかけようにも、ヴィーザルが肩を叩こうとしても、ベータを両手で握りしめるオルヴェがまるでなにかに縋り付く迷子の子供のように見えて、どうしようもなかった。
……自分たちもベータの問いへの答えを持ち合わせていなかったから。
「僕が先に答えてもいいですか?」
「勿論構いませんよ、エド」
沈黙を振り払ったのはエドのどこか優しい低い声だった。
エドは許可を出してくれたベータに向かってニコリと微笑むと、オルヴェの隣にやって来て彼と同じように塀に肘をついて並んだ。
……格好悪い顔を見られたくなくて、オルヴェは俯いたままエドを薄目で見上げた。
わざわざ隣に来たというのにエドはベータの問いに答えたりオルヴェに話しかけるわけでもなく、ぼんやりと空を見上げたり髪を揺らすそよ風に気持ちよさそうに目を細めている。
やがて、オルヴェも同じように風に耳を澄ませたり何も考えずに遠くの世界樹と青空を眺めてしばらく経った頃、エドは独り言を呟くかのように口を開く。
「……僕は死んだら神様の元に行きます、そう信じているので。だから死ぬこと自体はそこまででも無いんです。
……むしろオルヴェくんたちを守れないまま行くのが、怖い」
あまり参考にならなくてすみません、とエドは照れたように頭を掻いて苦笑いをする。
シワを寄せた眉に唇は固く結ばれ、どこか不安そうなオルヴェの青い瞳はしばらくエドをじっと見つめていたが、やがて決心したようにオルヴェは息を吐いて仲間たちに向き直った。
「オレは……正直言って死ぬのは怖い。でも、それよりもお前らを守れないまま倒れるのが……もっと怖いんだ」
雑踏にかき消されそうな程の声でオルヴェは言葉を紡ぐ、最後の方はほとんど聞こえないくらいの声量だったがそれでよかった。
だって、こんな弱い言葉をベータにも仲間たちにも聞いてほしくなかったから。
樹海で死体を見つけて、司令部で獣王の話を聞いてからオルヴェの脳裏にはずっと子供の頃の光景が浮かんでいた。
……あの日も、幼いオルヴェは行きつけの冒険者酒場によくいる年上の若い剣士の青年に会いに行ったのだ。
青年は二人組で冒険している以外は特に物珍しい存在ではなかったが、寄ってくるオルヴェを邪険にすることなく不思議な迷宮の景色や珍しい魔物の話を沢山してくれる……そんな冒険者だった。
だが、その日に限っていつまで待っても青年冒険者は現れなかった。彼の相方(オルヴェを邪険にしてくる方)も。
夕方が来るので帰ろうかと酒場を出たその時、見たのだ。
全身切られたような傷と赤黒い汚れまみれで、ボロボロの武具を大事そうに抱え、埃をかぶったガラス玉のような目玉がこちらを見下ろしているのを。
そのあと、青年剣士は酒場に顔を出さなくなってしまった。彼のことは冒険の話をしてくれたという思い出とあの日の冒険の終わりを迎えた横顔、それしか最早覚えていない。
……勢いに任せて胸の内を全て吐き出してしまったオルヴェはもうどんな顔をしたらいいのか分からなかった。
そんなオルヴェの左肩甲骨をヴィーザルの手のひらが直撃した。
「痛ぁ!!?」
「バーカ、俺たちがそう簡単に死ぬと思ってるのか」
「あたしたちだって十年は貴方の無茶に付き合ってきたんだからそんなにヤワでも薄情でも無いわよ」
……ヴィーザルとアリシアの言葉で一気に目が覚めたような気がしてオルヴェは顔を上げた。
いつの間にか仲間たちは皆自分の側に集まっており、皆どこか真剣な表情で更に言葉を続ける。
「確かに今回のミッションは危ないけど……みんなで戦えばきっとなんとかなるよ!」
「そう言う割には表情硬いぞイリス」
「うぅ!うーちゃんいじわるしないでよぉ!」
「そこ!勝手に盛り上がらない!」
口の悪いヴィーザルに涙目になるイリス、混乱してきた現場を仕切るアリシアに二人の間に割って入って宥めるエド。
目の前で繰り広げられる幼い頃から変わらない光景、自分を励ます為の光景にオルヴェの顔は自然と緩み、胸の中の熱い闘志が再点火する。
「マスター」
「……ベータ、もう大丈夫だ。」
……大事な友だちを守れないのが怖い、だったら必ず守ってみせる。
光を取り戻した青い瞳は腰に下げられた剣と、リーダーの命令を待っていた仲間たちに向けられた。
「……ミッションを受けよう、昨日の衛兵みたいな人を一人でも助けたいんだ」
だから手伝ってほしい、と伸ばしたオルヴェの手を小さな手や鎧を纏った手が強く握りしめる。
オルヴェはその温かい手を絶対に離さないように握り返すと、もう一度ありったけの想いを込めて感謝の言葉を告げた。
「ペルセフォネ姫!オレたちもミッションを──!」
司令部に戻ってきたオルヴェたちを待っていたと言わんばかりにペルセフォネは目を輝かせ肩を撫で下ろす、だが決定的な言葉が青年の口から飛び出す前に司令部の大扉が音を立てて乱暴に開かれた。
「何事だ」
「ほ、報告です!碧照ノ樹海にて衛兵長の部隊が襲撃を受けました!
そして獣王を追い二人組の冒険者が樹海の奥に……!」
二人組の冒険者、その単語にアルゴノーツ内の空気は一変しオルヴェは足を縺れさせながら歩く衛兵に詰め寄った。
「それってオリバーとマルコか!?」
「そ、そうだが!」
衛兵の言葉を聞いた瞬間、オルヴェの心臓が一瞬止まったかのように震えて全身から嫌な汗が噴き出した。
……脳裏に電撃のように浮かんだのは最悪の光景。
「っ!」
「……!待てアルゴノーツ!オルヴェ!」
呼び止めるペルセフォネを振り切ってオルヴェを筆頭にアルゴノーツは一目散に碧照ノ樹海に向かって駆け出した!
冷静になって考えれば実力も経験もあるオリバーとマルコの元に行っても力になれる可能性は低い。
でもオルヴェの全身の張り詰めた神経が、エドの第六感が、アリシアの知識が、イリスの傭兵としての本能が、ヴィーザルの鋭い嗅覚が──猛烈に嫌な予感を訴えてくるのだ。
◆◆◆
「オリバー!マルコ!」
一目散に駆け込んだ碧照ノ樹海二階の最深部。
そこは美しい緑の葉や樹木が赤黒く染められ、人間と獣が混ざったような異様な臭気に包まれていた。
辺りに飛び散った衛兵の装備や樹木の破片には既にアリが集い、場所によっては大きくへし折れた樹木や炭化した枝や毛が散らばっている。
……その奥では手当てを受けた人間がうずくまっていた。
「だっ大丈夫か!?」
「君たちは……冒険者か」
うずくまっていた男は近寄ってきたオルヴェたちの足音が聞こえていたようで、すぐに添え木を当てられた腕を上げて降り階段を指差す。
その腕に巻かれた部隊章には星が五つ刺繍され、最上位の衛兵──衛兵長である印にヴィーザルは目を丸くした。
……こういう管理職まで引っ張り出されるとは、相当追い詰められているのかもしれない。
「オリバーとマルコなら赤毛の熊を追ってこの下に向かった……もし行ってくれるなら早いところ加勢してやってくれ」
「っでもその怪我……!」
「私のことは気にするな!……いくら二人が凄腕でもあの獣はヤバい」
あの二人が助けに来なければ自分はここにいなかっただろうと衛兵長は力なく呟く。
「でも……」
「オルヴェ、俺らの目的は何だ」
「……オリバーとマルコを助けに来た、分かってるよヴィーザル」
それでもなお怪我に集中するオルヴェの腕を掴むとヴィーザルは強い語気で言い放つ。
……言われなくても分かっている、それでも身体が勝手に動いてしまったのだ。
長年染み付いた人助けの倫理か、或いはこれまで遭遇しなかった死への恐怖か。
そのどちらなのか、今のオルヴェにはまだ分からなかった。
……兜の下から見上げてくる戦う意志を失っていない眼光、縋るように伸ばされた衛兵長の手をオルヴェは握り返すと力強く頷いた。
「……行きましょう」
万が一に備え先頭に立ったエドの背に続き、オルヴェたちは真っ暗な階段に足を踏み入れた。
一歩踏み出すと足元からべちゃりとした水音が響く、幸いにもそれが何なのかは闇が覆い隠してくれていたが嗅覚の鋭いヴィーザルは鼻を抓む。
……死の匂いだ。
「キャアッ!!」
「うわぁぁぁぁっ!?」
不意に最後尾を歩いていたアリシアの足の裏で何が柔らかい物の感触がする
即座に甲高い悲鳴をあげた彼女を筆頭に、極限の緊張状態にあったオルヴェたちは毛を逆立てて猫みたいに飛び上がると一斉に武器を抜く!
「そ、そんなに驚くこと!?」
……ここまで驚かれるとは思っていなかったのか、当の本人であるアリシアは顔を真っ赤にするとしゃがみ込んで足元を探る。
エーテルで光る指先に当たった金属片が見えたアリシアは途端に表情を凍りつかせる。
どうしたんだと話しかけてくる仲間たちにアリシアは拾い上げたレンズの割れたメガネを見せつけた。
細い銀のフレームと少し分厚い近視用のレンズ、これとよく似たものをどこかで見たような気がした。
「……これって」
「っ!!」
居ても立っても居られなくて、拳を握りしめたオルヴェは先頭のエドを抜かすとぬめる階段でバランスを無理矢理取りながら一目散に階段の出口へと駆け下りる!
痛いくらいに差し込む光と緑、刺すような光に目を細めたオルヴェの青い瞳がゆっくり映したのは赤黒い血と土煙にまみれ地面に倒れ伏したオリバーとマルコの姿だった。
「そんな……」
──あれだけ全身にみなぎっていた力が一気に失われて、その場に崩れ落ちそうになる胴体を押し留めたオルヴェは眼前の結末を見つめるしかなかった。
……どうしてこんな事に。
自分があと少しでも早く辿り着いていれば、傷を癒せる力があれば、自分に力があれば。
認めたくない、でも震える喉から溢れる声は今にも泣きそうでぼやけた視界は何度擦ってもぬるい塩水がとめどなく流れ落ちようとしていた。
「……マスター、私を彼らの元へ連れて行ってください。
今ならまだ間に合います」
「え……ベータ?」
「早く。心臓が止まってしまう前に」
続けて口から漏れそうになった疑問にオルヴェはぶんぶんと左右に首を振り、ベータの指示通りにオリバーとマルコの元へ近づく。
土気色の彼らを蒼く照らしていたベータは音を立てて自らを剣から箱型に形状を変化させた。
「これから緊急手術を開始します、指示があるまで離れていてください」
「わっ!?」
ベータは細い触腕や未知の器具を生み出すと、オリバーとマルコのどす黒い色の痣や白い部分が見える傷跡めがけてそれらを突っ込む!
「うっ!」
突然の痛みにオリバーが低いうめき声をあげるが、脂汗の流れる険しい表情がすぐに和らいでいく。
まるで凄腕の針子のような手捌きでベータが自らを動かし続けている内に二人の傷はみるみる塞がり、顔色もだんだんと健康な色に戻ってきた。
「……呼吸安定、脈拍数正常。以前貧血の傾向が見られます、後はベースキャンブで専門的な処置をしてください」
「オルヴェくん!ベータさん……って!?」
オルヴェが生唾を飲み込み、イリスたちがオルヴェを追って三階に足を踏み入れた時にはベータはすでに治療を終え剣の形に戻っていた。
「ぐっ……君たちか」
「まっマルコ!オリバー!大丈夫なのか!?」
生き別れの家族と再会したような涙目で縋ってくるオルヴェに答えてやる代わりに、オリバーは彼の頭をもみくちゃに撫で回した。
周囲を探っていたマルコもアリシアから割れたメガネを手渡され感謝を口にする。
……誰が見ても致命傷だった怪我は戦えはしないものの歩けるまでに治されており、オリバーとマルコはヴィーザルたちに笑顔を見せた。
「もしかして、お前らが手当てしてくれたのか?」
「そんなところだ。それで……」
「二人も獣王ベルゼルケルに襲われたの?」
無論ベータのことは伏せてヴィーザルはお茶を濁し、イリスの問いかけに二人の表情は一気に険しくなる。
「そうだ。衛兵隊を襲撃していたところを僕たちも見つけて追いかけたんだ」
「手傷は負わせたが、この階に降りたらすぐに姿を隠しやがって……この有り様だ」
そう言って二人の顔が苦々しげに歪められる。
脳裏に浮かぶ敗走の記憶だけではなく、身体中に刻まれた痛みに魘されるように。
……戦闘しながら自分のテリトリーに誘い込み、弱った獲物に奇襲を仕掛ける狡猾さを持つ獣王。
不意に遠くから聞こえた地鳴りのような咆哮にオルヴェたちは思わず身構える。
「……大丈夫、ここからは離れているみたいだ」
「よかった……」
「それよりもアルゴノーツのみんな、君たちに頼みがあるんだ」
「獣王に手傷を負わせたのは話しただろ?
……このまま俺たちが追い詰めて仕留められればいいが、今の状況ならお前たちでもいけるはずだ」
オリバーとマルコは互いに支え合いながら立ち上がると、オルヴェたちを真剣な眼差しで見据えた。
「ま──……いや、」
……自分はこれまでの人生で何回『任せてくれ』と口にしただろう。人助け、自分がやりたい、あるいは誰かを安心させるために。
今回のオルヴェの『任せてくれ』はそのどれでもなかった。
口から出たのはでまかせのその時気分の言葉じゃなくて、不思議と頭が冴えて胸の中で闘志が燃え盛る『信頼』の感情だった。
「任せてくれ。必ずオレたちアルゴノーツが獣王ベルゼルケルを倒す」
オルヴェのまっすぐな言葉にオリバーとマルコは無言で頷くと親指を上に立てて歯を見せてきた。
「この戦いが終わったら美味いステーキでもご馳走してやるぜ」
「本当か!?約束だからなっ!」
「オルヴェくんは相変わらず切り替え早いですね」
エドの指摘にオルヴェがまた膨らんで、アリシアたちも思わずクスリと笑いをこぼし緊張気味の空気が和らいだ。
……肉はいつ食べても美味しいものだから仕方がない。
二階の衛兵と一緒に居ると階段を登っていったオリバーとマルコを見送り、オルヴェたちは再度気を引き締める。
鳥の声や日の差し込む緑色の監獄は最早相手のテリトリー、オルヴェたちにできることは痕跡を辿り樹海の奥へと進むことだけだった。
ヴィーザルとイリスの調査の元、獣王ベルゼルケルを探してオルヴェたちは赤い毛のついた茂みやまだ温い血液を発見し歩きまわっていた。
出来るだけ散開しないように一箇所に集まって調査をしていたオルヴェは少しだけ仲間に背を向けると、ベータに向かって小声で喋りかけた。
「……その、ベータ。さっきはオリバーとマルコを助けてくれてありがとう」
「どうしたんですかマスター」
無機質な声は生意気なオルヴェが突然見せた殊勝な態度に、ベータは訝しげに言葉の真意を問うと少年はあれだ、それだ、と口ごもりながら少し赤くなった頬を掻いた。
「オレたちだけじゃ多分オリバーとマルコを助けられなかった、でもお前のお陰で救えたんだ。だからその……ありがとな、ベータ」
まだ幼い顔を綻ばせ青い瞳を細めた少年をベータは無言でスキャンする。
安定した心拍数や青い剣をしっかりと捉えた瞳、表情筋の動きやセトロニンの量も、全て感謝や好意を示すものだった。
「……喜ぶのは早いですよマスター、まずはミッションの達成を」
「そうだな、おう!」
感謝には応えず、先への道を促してやると単純なオルヴェはニカッと歯を見せて笑うと、腕まくりする動作をしながら獣王の痕跡を探し出した。
……こういう時どんな反応を返せばいいのか、破損したベータのデータベースではその答えを導き出すことが出来なかった。
「……あれ?」
追いかけていた獣王ベルゼルケルの足跡が途切れ、イリスは首を傾げる。足跡が消えた先は背の高い草の茂みであり、大きな動物が通ったような痕跡はない。
……なのに足跡は行き止まりで途切れているのだ。
「どうしたの?」
「足跡が無くなっちゃって──ん」
うーんと唸りながら顔を上げたイリスはアリシアの背後の木に目が止まる。
オリバーとマルコが戦ったのか、その幹は他と同じように破壊の痕跡が残されており爪痕が上にまで付いている。
(……あんなに高いところまで?)
突然殺気立ったイリスにアリシアが不安そうに話しかけてくるが全身の悪寒が止まらない。途轍もなく嫌な予感がする。
足跡や痕跡から推理するに獣王の体調は碧照ノ樹海のバオバブよりも小さいはず。上まで届くならそこら辺に葉っぱの一枚二枚落ちているはずなのに。
……なのになんで。
イリスはやっと違和感の正体に気がついた。
──獣王の足跡が、僅かに二重になっているのだ。
二重の足跡は行き止まりを少し戻り、自分たちの背後にある例の木へと──!
「みんな!これは罠──っ!」
イリスが叫ぶと同時にオルヴェたちの頭上が一瞬にして暗くなる。
──反射的に見上げた先にいたのは、樹の上から飛び降りてくる赤い毛皮の巨大熊、獣王ベルゼルケルだった。
誰かが耳を塞げと叫んだ声は、狩りの始まりに歓喜する獣王の前ではあまりにも小さすぎた。
◆◆◆
「────!!!!」
「っ!?」
荒れ狂う嵐の如き大絶叫に混じってぶつんとオルヴェの耳の奥から何かが千切れるような音がする。
直後、突然地面を踏みしめていたはずの足が宙に浮き視界が傾き出したのだ。
(な──っ!?)
──平衡感覚が崩れそのまま地面に倒れそうになっている!
そこまで気がついた時にはオルヴェの頭上に獣王ベルゼルケルの巨大な白色の爪が迫っていた!
「オルヴェ!!」
「ぐえっ!?」
ヴィーザルの声が聞こえた気がした瞬間、オルヴェはマフラーを掴まれて勢いよくに引っ張られる!
ヴィーザルの手で地面にひっくり返ったオルヴェは咳き込みながらも自分たちの前で地を抉る剛腕と鋭爪に固唾をのんだ。
もしもヴィーザルが来てくれなかったら……。
「っありがとヴィーザル!」
「礼は後だ!来るぞ!」
耳鳴りのやまぬ身体に再度力を込めオルヴェたちは獣王ベルゼルケルの剛腕を紙一重で回避する。
先ほどのバインドボイスの効果がまだ残っているのかオルヴェの耳奥からは未だに甲高いノイズ音が響いて集中力を削ぐ。
(みんなは──!)
当たれば致命傷の一撃を身を捻りながら回避しつつ、オルヴェの青い瞳が仲間たちを探す。
アリシアやヴィーザルは奇襲時に距離を取っていたお陰で無事だったが、オルヴェと同じようにモロに絶叫を受けたエドも耳鳴りが止まず自らの身を守ることで精一杯、イリスに至ってはあたりどころが悪かったのか地面にぐったりと倒れて動かない。
そんな彼らを守るように獣王ベルゼルケルとの間に何度も砕かれても檻のような氷柱が生え、投刃が獣の硬い額に突き刺さる。
足止めは出来ても、マトモなダメージを与えられていないのだ。
「っベータ!」
『お呼びですかマスター』
咄嗟に口から出たのは慇懃無礼な剣の名前だった。
どういう原理か知らないがくぐもってない声が即座に頭の中に響く。
「前みたいに蒼いオレだせないか!?」
蒼いオレ……東土ノ霊堂での戦いでオルヴェから生み出された謎のもう一人のオルヴェ。
不服だが自分よりも強い自分さえいればこの状況を好転させられるのではないか。
だがベータはその発言に宝玉を何度か輝かせて否定する。
『計測の結果、現時点での残影召喚率5%以下と判断します』
「っ!じゃあ何でもいい!何でもするからお前の力でこの状況を打開できないか!?」
考えてる暇なんてない。ベータと話している間にもアリシアたちのスタミナは無慈悲に削られていく、彼らを助けるためなら自分はどうなったって構うものか!
無鉄砲でまだまだ子どもな少年の未熟な覚悟と責任を秘めた瞳にベータはため息をついた。
……だが、次にベータが放った言葉はいつもの皮肉ではなかった。
『エネルギーを幾つか消費し「鼓舞」を使用します』
「鼓舞!?わっ!」
ベータの剣身が僅かに縮み、溢れ出した蒼白い光がオルヴェの身体に薄くまとわりつく!
握りしめた柄は熱を放ち、オルヴェの体の傷や聞こえる音がどういうわけか元に戻っていく。
何よりも全身にやる気のような闘争心が燃え上がっているのだ。
「これは……」
『現在『鼓舞』を発動中。
マスターの攻撃に合わせて相手の生命力を私たちへ還元します、戦って下さい』
「っ!分かった!ヴィーザル、アリシア!」
オルヴェが仲間たちに呼びかけると二つの双眸が光るオルヴェとベータを一瞥する。
少し短くなった剣で獣王ベルゼルケルを指し示すと二人は首を縦に振りそれぞれの得物を構えた!
「正面からは無理よ!ちょっと待って!」
アリシアは一旦戦場から距離を取ると一呼吸置いて星術器のリミッターを吹き飛ばしその場で狙いを定める。
手加減ナシの全力で戦っていたせい星術器はオーバーヒートしそうだし体内のエーテル濃度もそろそろ害が出るレベルだ。
──だからこの一撃に賭ける!!
「聞こえたなオルヴェ!?」
「おう!」
ヘマするなよ、ヴィーザルはそれだけ言ってオルヴェの目の前から一瞬にして掻き消える!
隙を作るのはアリシア、撹乱はヴィーザルに任せオルヴェは改めてベータを握り直す!
「ふんっ!!」
「───ッッ!!」
すばしっこく動き回っていた餌はどこへ行った、と言わんばかりに首と目玉を動かす獣王の顔にヴィーザルの投刃が命中する!
上かと見上げれば今度は横っ腹に、下を爪で薙ぎ払えば次は耳元に。
自身の致命傷にはならないものの続く痛みの雨に獣王は苛立ちを募らせていた。
突然動きが変わった冒険者たちに獣王は警戒するように唸り声を上げていたが、やがて乱杭歯の生えた口を歪ませる。
……視線の先にいるのはエドとイリスだ!
「イリスっ!くっ!」
「うおっ!?」
イリスのピンチに動揺したあまりヴィーザルは木から足を滑らせそのまま落下する!
──上から降ってきたヴィーザルをオルヴェは自分の身体で受け止めるが獣王ベルゼルケルの歩みは止まらない!
「エドく……うーちゃ……っ!」
「っ伏せて!」
咄嗟にエドはイリスの前に出ると盾を構える。
だが奇襲のダメージが抜けきっておらず盾も構えるというよりも、杖のようにすがってぎりぎり立っている状態に近い。
やっと目を覚ましたイリスも獣王に応戦すべく立ち上がろうとするがその力はあまりにも弱々しい。
──間に合わない。
誰もが、仲間めがけて獣王ベルゼルケルが振り下ろした爪を絶望的な表情で眺めていた。
「──折角帝国騎士レベルの威力が出せるまで準備したのに」
ただ一人、最適なタイミングを求めて星術器が壊れる限界まで四人と一匹の戦場を観察していたアリシアは獣王に向かって不敵な笑みを浮かべる。
「目眩ましには豪華すぎるかもねっ!」
避けろ、と叫びアリシアは星術を獣王ベルゼルケルの背中から『獣王ベルゼルケルの足元』めがけて解き放った!
地面にエーテルが着弾した瞬間、戦場は一瞬の内に熱風と土混じりの黒煙に包まれる!
エドとイリスは盾で、オルヴェとヴィーザルは警告を聞いて咄嗟に回避することができたが背後から不意打ちを食らった獣王ベルゼルケルは視界が一気に黒く染まり足元の熱と衝撃に思わずよろめいた!
奴らは一体どこに消えた?
「オラァッ!!」
五秒ほどの僅かな静寂。
直後に黒煙を貫いて銀色の投刃が無防備に晒された獣王の脛に突き刺さり、黒煙をぶち抜いて飛び出したオルヴェが渾身の追撃を見舞う!
丸太のごとく分厚い皮膚と骨を殴れば当然だが、攻撃の反動がオルヴェの腕から嫌な音を響かせるが、これだけやれば相手もただでは済まないはずだ。
「─────ッッ!!!」
「!ぐうぅっ……」
いくら人間よりも頑丈で痛みに強い魔物とはいえ、体重を支える脛の骨にヒビが入ったのだから獣王ベルゼルケルの反応は当然だ。
『変換機構、起動!』
ベータの無機質な──だがどこか気合の入った声が響く!
直後に獣王に食い込んだ刃が血を筋肉を体表組織を吸い始め、飛び散った血が一瞬の内に光の粒子へと変換される!
粒子は流れ星のように仲間たちの傷口や負傷箇所に侵入し瞬く間に再生した皮膚を塞ぐ。
……ベータの言っていた『鼓舞』の力だった。
「ベータ……うわっ!?」
食い込んだ剣を引き抜いたオルヴェの頭上に振り下ろされたのは体勢を立て直した獣王の剛腕だった。
いくら黒煙で視界が悪いとはいえ自分の近くにいる外敵を魔物が見逃すはずなどない。
「オルヴェくん!ぐっ!」
鼓舞で回復したエドは即座にオルヴェと振り下ろされる剛腕の間に割って入った!
激しい複数回の斬撃にエドの身体は後ろに押されスマイトシールドの鋼板が波打ち──遂に左側の盾が割れる。
「っ大丈夫か!?」
「何とか!」
口では気にするなと告げるエドだが残った盾も先ほどの連撃でほぼスクラップ同然だ。
獣王ベルゼルケルも最早なりふり構ってられないのか防御を捨てた猛攻は新米冒険者であるアルゴノーツに攻め時を見失わせるのには十分だった。
星術器の壊れたアリシア、だんだんと減っていく物資、迫る黒煙の目隠しのタイムリミットにヴィーザルは舌打ちする。
「オルヴェくん!」
「!イリス」
前線で獣王を抑え込むオルヴェとエドの元へイリスが駆け寄る。
握られていた槍はいつの間にか腰に付けた大剣を組み込んだ殺傷力の高い両刃槍になっており、イリスは息を切らせながらベータを指差した。
「ベータさん!今でも剣以外の形になれる!?」
『……勿論。その様子だと何か思いついたのですか』
イリスは勢いよく頷くと、オルヴェとエドそしてベータに手短に作戦を告げる。
──少女の語る作戦、作戦ともいえないような思いつきにオルヴェたちは賭けることにした。
オルヴェが駆け出すと同時にヴィーザルにも話をつけていたのか、肺の二酸化炭素を吐き切って彼も獣王の頭上から陽動を開始する!
今のオルヴェたちの仕事は獣王ベルゼルケルの気を引くことだ。
足元をすばしっこいネズミのように駆け、盾を鳴らし出来るだけ黒煙の中に視点を固定する。
……黒煙が少し薄い外周部分では観測手役のアリシアの元、イリスの槍先が動く獣王の頭蓋を狙っていた。
イリスが提案した作戦は単純なもので、ブレインレンドによる即死だった。
体力も気力も枯渇寸前、相手は凶暴化しているが手負い、塞がれた視界。そして先程まで気絶していたことで消耗の少ないイリス。
それらの条件を踏まえてイリスたちは『全力の一撃必殺による離脱』に賭けることにした。
生きている以上、脳さえ潰せばこの勝負は終わるのだ。
「──今よ!」
「当たっ……てぇぇぇっ!!」
アリシアの声と誘導用のエーテルマーカーが放たれ、イリスは全身をバネのように捻り地面に踏み込むと前に転びながら獣王ベルゼルケル目掛けて槍を投擲する!
だが、顔めがけて投げつけられた槍を獣王ベルゼルケルは一瞥すらすることなくまるで虫を払うかのように一薙ぎで弾き飛ばした──はずだった。
「足元に──ご注意をっ!!」
煙の中に隠れていたエドが獣王の膝目掛けて残った鋼鉄の盾ごと体当たりをぶちかます!
歪んだ盾一枚では倒すことはできなくても限界まで足に力を入れ全体重をかけたシールドバッシュは獣王の片足に電気のような痺れと反射的な硬直をもたらす!
『マスター!引いて下さい!!』
「っ避けさせるかァッ!!」
ベータが刃を青白い鞭状に変形させ獣王に吹き飛ばされた槍を巻き取り、オルヴェは全身の体重を乗せて思いっきり鞭を引っ張った!
イリスの渾身の一投、それを弾いた獣王の腕力、その二つの運動量が合わさり投石機並の勢いになった飛翔物は獣王が防御するよりも早く、槍は緑の刃を光らせながら巨大な赤いたてがみに叩きつけられた!
「───!!!!」
予想外の方向から戻って来た槍が獣王ベルゼルケルの頭蓋骨を叩き割る!
手傷を負った身には強烈すぎる一撃に獣王は泡と血混じりの吐瀉物を撒き散らしながら仰け反って倒れ込む。
衝撃と土煙にオルヴェたちはよろめきつつも土煙の先を睨みつける。
……やがて土煙が晴れて見えてきたのは凹んだ後頭部から赤と桃の体液を垂れ流しながら動かなくなった獣王ベルゼルケルの最期だった。
「……倒した、のか」
ハアハアと肩で息をしながら地面に倒れた獣王ベルゼルケルを睨むオルヴェ。
ヴィーザルはその言葉を確かめるべく動かなくなった獣王へ近づいて見分し、やがて頭を振った。
振り向いたヴィーザルの無愛想な顔は驚きと高揚、そして達成感に満ち足りた微笑を浮かべていた。
「間違いなく死んでる……俺達がこの怪物を倒したんだ」
「やっっ……たぁぁ〜〜〜〜!!!」
碧照ノ樹海に若き冒険者たちの勝利の雄叫びが響く。
ある者は仲間に飛びつき、ある者は解放感から地面にへたり込み、ある者は武器を掲げ自分たちの勝利を称え合った。
数週間前まで、アルゴノーツの面々は魔物と戦うどころか樹海に足を踏み入れたことすら無かった。
そんな自分たちが今、どんな熟練冒険者も倒せなかった魔物から勝利をもぎ取ったのだ!
「っ!オリバーとマルコに早くこの事を知らせようぜ!」
「オルヴェくん待って!まだはぎ取り終わってないよぅ!」
今すぐにでもこの吉報を伝えたくて仕方がない、まるで犬みたいに階段前でぐるぐる走り回るオルヴェの姿にイリスたちは大口を開けて笑い出した。
『マスター、階段の上に大きな生命反応があります』
……そんな和気藹々とした空気の中、不意にベータの宝玉が点滅する。
「オリバーたちじゃないのか?」
『いいえ』
オルヴェの質問にベータは即答する。
いつものように冷静で淡々と、だが警戒を隠そうともしないベータの態度にアリシアたちは眉間にシワを寄せた。
「じゃあ、」
ベータが探知した『それ』は一体何なのか。
先程まで勝利に湧いていたオルヴェたちの表情は不安と警戒の色に染まり、聞こえてくる鳥の声や葉擦れの音にも身を強張らせていた。
『この距離では詳細なスキャンは不可能、対象に近づいて下さい』
近づけということは。
オルヴェは視線を動かして上り階段を凝視する。
……暗く先の見えない階段は独特の臭気と不気味なほどの静けさが漂って、それがまるで自分たちを飲み込もうとする魔物の口のように思えた。
「……行きましょう、警戒は怠らないように」
隊列の一番前に来たエドにオルヴェは頷くと未だに赤い水音のする階段を登り始めた。
行きと違い焦燥感や手遅れになるかもしれないという危機感は無いものの、アルゴノーツに流れる空気は暗く重たいものだった。
「ねぇ」
ゆっくりと点滅しながら生命反応を調査しているベータにアリシアが率直な疑問を投げかける。
「大きな反応ってオリバーたちが一塊になってるからって線はないの?」
アリシアは違うかもしれないけどと前置きしながら、大気中のエーテルを探知する時もたまに複数のエーテル素が集まっているせいで星術器が誤認する事があるのだと語る。
怒ったようにも見えるアリシアの真顔に、うっすらと冷や汗が流れているのにオルヴェは気がついた。
『いいえ。この生命反応は単体、ここまでの大きさだと人間の可能性はほぼありません』
「ちょっと待って下さい。それ『以外』の生命反応は無いんですか?」
『それ以外の生命反応は……探知不能です、が──』
オルヴェはベータや仲間たちの声を無視して一目散に階段を駆け出す。
──二階で待っているのは三人、ベータが探知した生命反応は……一つだけだ。
巨大な獣を倒し、今まさに急勾配の階段を全速力で駆け抜けている身体よりも、この先は危険だと言わんばかりに早鐘を打つ心臓の方が痛くて仕方がなかった。
『止まって下さいマスター!
例の生命反応とほぼ同一の生命反応パターンがデータベースに存在します!』
ベータが何を言っているか、オルヴェには最早耳を傾けるだけの冷静さは失われていた。
ただ光の射す方へ、みんなが待つ場所へ走る。じゃないと……
強迫的な不安と衝動に突き動かされ最後の段を飛び越えたオルヴェが最初に感じたのはむせ返るほどの鉄の匂いだった。
次に聞こえたのが水風船を思いっきり地面に叩きつけたような破裂音、それから追いついた仲間たちの息を呑む音。
清水を湛えていた水辺は赤黒く濁っており、その近くに居たのは人間ではなかった。
──赤と黒の毛皮と背後からもわかる程大きく白い爪、納屋くらいはある巨大な身体。
「あ……」
オルヴェの口内はカラカラに乾燥して、『あれ』を見るなと全身の皮膚が鳥肌立つ。
そんな事などお構いなしに『食事中の獣』は首を鳴らしながらゆっくりと振り向く。
「ひっ」と背後のイリスの口から漏れた悲鳴がやけに遠くに聞こえた気がした。
「……オリバー、マルコ?」
『この生命反応パターンは……獣王ベルゼルケルのものです』
──そこにいたのは顔を血と肉片で彩った、傷一つ無い『二匹目』の獣王ベルゼルケル。
その足元の血溜まりの上で雑に転がされているのは死体みたいに真っ白になって動かなくなった『三つの身体』だった。
獣王は吠える。
森を揺らす咆哮はまるで新たにやって来た『おかわり』に対する歓喜のようにも、新米冒険者たちの恐怖と絶望の表情に対する嘲笑のようにも聞こえた。
◆◆◆
「ベータ!」
『マスターたちの現在の勝率は5%以下、逃走を推奨します』
「っ……!」
オルヴェの肩越しにアリシアは身を乗り出すと鋭い声でベータを呼ぶ。
……予想はしていたがあまりにも受け入れ難い答えにアリシアの喉がゴクリとつばを飲み込んだ。
ベータの頭脳を以てしても、オルヴェたち全員を無事に生還させるには『三人を見捨てて逃走する』選択肢しかないのだ。
オルヴェたちと獣王ベルゼルケルとの距離は約30メートルといったところ。
逃走する──恐らく向かって来る獣王ベルゼルケルの攻撃を回避しながら、取り出したアリアドネの糸が発動するまでの時間──としてもギリギリな距離かつ、自分たちは先程の戦いで物資の殆どを使い切っているのである。
(……動いたら来ますね)
ボロボロの盾一枚でも”仲間たちの”逃走経路を確保するには十分、だがエドが盾を構えようと体を動かすだけでも獣王は牽制するように低い唸り声を上げる。
……こうやって立ち止まっている間にも獣王は一歩ずつこちらへ近づいてくるし、大怪我を負った三人の命の期限はドクドクと地面に流れ落ちてゆくというのに何も出来ない。
「一つ良いか、もしもだけど……今オレたちが逃げたらあの三人はどうなる」
無力感に苛まれるエドの苦々しい顔を黙って見つめていたオルヴェが不意に場違いなくらい明るい声でベータに問いかけてきた。
『99.9……いえ、確実に死亡します』
「……そっか」
はっきりとオルヴェにも分かるようにベータは『不可能である』と答えてやるとオルヴェは少年らしくない真剣な表情になる。
何時間も考え抜いたような沈黙の後、オルヴェは肩をすくめて笑った。
「なぁベータ、オレとお前で”助けが来るまで”どれくらい時間稼げるかな?」
「なっ!?」
『……無謀です、何を考えているんですか』
──強がりはやめろ。
心拍数はさっきからずっと高い数値を記録しているし、死を目前にしたストレスによる震えは止まらないし、アドレナリンの値も上昇しているというのにオルヴェは頑なに首を縦に振らない。
「無茶だ!オルヴェくんも一緒に逃げましょうよ!?一人で戦うなんて自殺行為ですって!」
「分かってるよ!ごめん!でもっ!」
何を考えているのか、さっきまで自分がやろうとしていた事を理解したエドは強い語気でオルヴェの手を掴む。
だが少し睨むように細まった青色の瞳や僅かに力の入った唇は少年の中で燃えている感情の渦に呼応して、泣いているようにゆらゆら震えている。
……自分にこの少年は止められない。長く付き合っていたからこそ、彼が何を思い誰に謝っているのか嫌と言うほど理解できる。
「絶対、助けが来るまで死んじゃダメですから、盾をやる人はそれが絶対ですからね」
「当たり前だって!」
強い意思を秘めた瞳と見つめ合うこと数秒、エドは爪が白くなるまで掴んでいた手を静かに離しオルヴェに言葉を残し仲間たちの方へと戻る。
二人の対話を、自分たちの気持ちを代弁してくれたエドを静観していたアリシアたちは戻ってきた彼に頷き、剣を手に取ったオルヴェと視線を交わす。
無言の問いかけに答えるようにオルヴェは仲間たちに小さく頭を下げると、赤いマントを翻しベータの柄を折れんばかりに握りしめて一歩前に出る。
──恐怖と不安と罪悪感が八割、そしてオルヴェの内側に渦巻く残りの二割の感情が何なのか理解したベータは思わず思考をそのまま口にしていた。
『何故マスターは……立ち向かえるのですか。己を心配する同胞に背を向け、助かる見込みのない人間に手を差し伸べ、勝ち目のない戦いに挑むのですか』
オルヴェは言い返すわけでも無く寂しそうに笑ってみせると震える喉で深呼吸をして、目と鼻の先に迫ろうとする獣王ベルゼルケルに切っ先を向けた。
背後で叫ぶ仲間たちに向かって任せた!とだけ残し、オルヴェは全身に気合を漲らせる!
「どうにもならないとしても──見捨てられるわけ無いからだぜ!」
この少年を突き動かしているのは仲間を巻き込みたくないという自分勝手な責任感と夢物語のような正義感、それから世間知らずの蛮勇と呼ぶしかないほどの善性だ。
……AIであるベータはオルヴェのそんな甘くて青臭い信念がひどく愚かで子供で馬鹿らしくて非論理的で……どうしようもなく羨ましく思えた。
『──封印『三つの鎖』”一の鎖”解除!』
◆◆◆
一瞬何が起きたのか分からなかった。
ベータの声との直後にオルヴェの全身に小さな衝撃が走って身体が急に軽くなった気がしたのだ。
そのまま地面に踏み込んだ……その一歩だけでオルヴェの身体は獣王ベルゼルケルの『背後』に回り込んでいた。
『マスターの脳のリミッターを全て解除しました!
三分以内にケリをつけて下さい!』
「わ、分かった!」
指示通りオルヴェは急ブレーキを掛けると振り向く獣王ベルゼルケルの腕目掛けて刃を振るう!
蒼雷を纏うオルヴェの振るった刃を獣王ベルゼルケルは咄嗟に太い爪で受け止めるが、その一撃は先程『狩った』冒険者たちとは比べ物にならないほど重く、強烈な衝撃が全身の骨を震わせる。
『マスター!下です!』
「ああ!」
カウンターのつもりか下から”ゆっくりと”突き上げられるもう一つの鋭爪をオルヴェは半身で回避し、逆に大きな手のひらに蹴りを入れて距離を取る!
振り回される豪腕の乱舞を強化された動体視力で見切り、幾度となく間髪入れずに繰り返される斬撃に獣王は少しずつ階段の方へと後退していく。
……先程まで目の前の『餌』はこんな異様な気配を放っていなかった、なのに光った瞬間から突然強くなった。
──これは、なんなんだ?
湧き上がる苛立ちと未知の存在というストレスに獣王は毛を逆立てながら攻撃を続ける。
当たれば致命傷の猛攻を軽やかに回避し、小さくも無視できない痛みとしつこい攻撃を続ける、何とも小賢しい──!!
『一分経過』
「っ!」
耳元で風切り音が聞こえる。
避け損ねて斬られた髪や流れる冷や汗を拭うことなくオルヴェは死の舞踏を続けていた。
階段近くに居たアリシアたちの姿が見えない事に胸を撫で下ろすが、すぐに息を吸って目の前の怪物との死闘を再開する。
(まだか…!)
動き回る獣王ベルゼルケルを牽制しつつ、オルヴェは自分の背後を何度も確認していた。
たかが一分待ったところで助けが来るわけないのは重々承知しているが同時にまだ一分しか経っていない事に歯噛みする。
……挑発と攻撃を繰り返し何とか獣王ベルゼルケルがオアシスに近づかないよう誘導しているが怪我人たちの方はいつまで持つか分からない。
(急所を避けてる……!)
それに、いくら身体能力の制限が無くなったとはいえ新米冒険者如きが五体満足の樹海の支配者相手に太刀打ち出来るほど樹海は甘くない。
脳のリミッターが外れ解放された火事場の馬鹿力は確かに獣王の体力を削っているが、どの一撃も急所に命中することはなく赤い毛や蒼い光の粒子が舞い散るばかり。
大したダメージを与えられない現状、迫り来るタイムリミット。
真綿で首を絞めるように、戦況は次第に獣王ベルゼルケルの方へと傾き始めていた。
『一分三十秒経過、残り時間半分です』
「分かってるっ!」
動きが雑になってきたことを指摘され焦りが更に加速して、掠った剛腕の勢いで体勢を崩して攻め時を失う。
早く何とかしなければ、どうにかしてこの状況を打開しないと。
額から流れる汗も拭わず戦い続けていると不意に獣王ベルゼルケルと目が合う──オルヴェが何を庇っているのか分かったと言わんばかりにその眼が弧を描いた。
「!!マズいっ!」
獣王ベルゼルケルが咆哮を上げて走り出すと同時にオルヴェも全速力でオアシスの方へ走る!
走る勢いを生かしたまま、ほとんど飛び込むような姿勢でオルヴェは倒れた負傷者たちの前に立ち塞がる!
……だがオルヴェが見たのは迫りくる巨体や巨大な爪の一撃ではなく、猛スピードで飛んでくる巨木の幹だった。
「あ──」
──ダメだ、避けられない。
咄嗟に迫りくる衝撃に身を強張らせ、やがてオルヴェの世界は土煙と轟音に包まれた。
濛々と立ち込める土煙と頭上を飛び交う鳥の奇声に向かって獣王はフンと鼻を鳴らす。
……投げ飛ばした大木は地面を削り取り、悲鳴すら上げることを許さず一瞬で相手を叩き潰した。
餌を食べ損ねたのは気に食わないがそれよりも『青白い光』がいなくなったのは幸いだ。
これでやっと安心して食事を再開できる、土煙が晴れたら木を退かせばいい……と。
「っげほげほ……あれ!?オレ生きてる!?」
砂埃に咳き込みながらオルヴェは上体を起こした。
どういう訳かいつまで経っても身体がバラバラになりそうな衝撃が襲ってこなかった。
代わりに見えたのは自分を庇うように前に立つ黒い影──負傷した身体全体を使い必死に盾を構えるオリバーの姿だった。
「──オリバー!?」
「後輩が頑張ってるのに……俺達が暢気に寝てられるかよ!」
素っ頓狂な呼び声にオリバーは脂汗を流しながらも歯を見せて豪快に笑い、すぐに煙の向こうの獣王ベルゼルケルを睨みつける。
次いで飛び出したマルコも倒れかけた相棒にしがみつき共に盾を支える。
──鎮痛剤の効果でギリギリ立てるようになったが貧血気味の身体では、やがて限界を迎えて倒れるのも時間の問題だ。
「でも一体誰が、」
「実際に見た方が早いよ、だろう?」
オリバーと同じように包帯や添え木で手当を施されたマルコが背後を指先で示す。
オルヴェが上体をぐるりとひねって示された方向を見やると、そこにいたのは逃がしたはずのイリスとヴィーザルだった。
「イリス!?ヴィーザル!?な、なんで残ったんだよ!?」
「たとえベータがあったとして、アレ相手に一人で何とかなるわけ無いだろ」
腰を抜かしたまま腕で動いて詰め寄ってくるオルヴェの姿に吹き出しつつ、ヴィーザルは手を伸ばして立ち上がらせてやる。
ヴィーザルとイリスの体はどす黒い返り血で染まっており、先程まで何をしていたのかを示すように掴んだ手のひらはぬちゃりと生温かな感触を返した。
……彼らが、オリバーたちを治療していたのだ。
「あのまま放っておいたら多分持たないと思ったの、だから人を呼ぶのはアリシアちゃんたちに任せて私たちは衛兵長さんたちの手当をしてたの」
「必死過ぎて見えなかったか?」
薄くなった薬品ポーチをその場に投げ捨てて、軽口を叩きながらヴィーザルとイリスが側に並ぶ。
先程の戦いで消耗しているというのに二人は武器を構え静かにオルヴェの突撃を待つ。
「……ありがと」
……一人で戦うと言ったのに、結局助けてもらった。
そんな自分がどうしようもなく情けなくて、それでもありがたくてオルヴェは喉元まで上がっていた謝罪の声を飲み込んで、代わりに震える手で剣を握り直す。
恐怖?いや──きっと武者震いだ。
『残り一分です。
……私を使ってどうするかはマスターの自由ですよ』
ベータの声が胸の中に巣食う暗闇を打ち払う。
……隣に並び立つ仲間たちが自分に向ける顔、大怪我を負っても生き残るために立ち上がる姿、そして背後には守るべき困っている人間がいる。
彼らがオルヴェに何を願っているのか、埋められない実力の差を埋められる切り札をどう使うのか。
──そんな期待を向けられたら、申し訳無さも弱音も不安も全部吹き飛んでしまうじゃないか!
「そりゃそうだ、なっ!」
身にまとう蒼がより一層濃くなって土煙を叩き割りながら獣王へと突撃する!
風切り音よりも疾く!相手に知覚されるよりも疾く!
……負傷した仲間と少ないリソース、とくれば狙うは一撃必殺あるのみ!
ド新米のオルヴェでもそれしかないと理解できる!
最早手抜きは不要、と獣王ベルゼルケルは巨大な筋肉塊を振り回し樹海の木々をなぎ倒す!
降り注ぐ暴力と木片の大嵐に冒険者たちは迷うこと無く飛び込む!
『残り、三十秒です』
岩と衝撃に耐えた盾の影から飛び出した槍が足甲を貫き、絶え間なく打ち込まれる投刃と剣の一閃が確実に戦力を削ぐ。
剣が、槍が、盾が、術式が、あらゆる決死の攻撃が獣王ベルゼルケルの心臓を貫かんと放たれる!
『残り、十秒』
……獣王ベルゼルケルは空腹と苛立ちの中に一つの疑念を抱いていた。
窮鼠の如く増えて無駄な抵抗を繰り広げる餌たちから漂う殺気が『薄い』のだ。
食われまいと暴れる餌たち、どの攻撃も命を奪わんとする物なのにどこか違和感がある。
獣だからこその勘、魔物だからこその頭脳。
蒼く光る剣が項を叩き切らないことか、遠くの獲物が前みたいに炎を放ってこないことか、足元ばかり狙う槍や盾がまるでわざと先へ歩かせているような……。
「今だ!やれッッ!!」
マルコの割れんばかりの叫び声と泉が水柱を立てたのは同時だった。
「──!!!!」
『凍えるほど冷たくなった』泉に獣王が片足を踏み入れた瞬間、衝撃を受けた水が一気に凍りつく!
咄嗟に引き抜こうとするも肉の内側にまで超低温の霜が棘だらけの針のように突き刺さりあまりの激痛に悲鳴を上げる。
術師を狙った一撃を鋼の盾が防ぎ、代わりに異型の剣と槍が無事な方の足を襲撃する!
──その間から蒼い光が銀の弾丸のように飛び立つ!
『三、二、一……』
「うぉぉぉぉぉっっ!!」
「!!!」
前を向いた獣王の双眸が最後の一瞬だけ捉えたのは顔の高さまで跳躍した少年と蒼い切っ先だった。
裂帛の気合を纏った一撃が獣王の額に直撃する。
多重の斬撃が超高速で叩き込まれ、まるで一つの光のように収束する。
光と赤の奔流が獣王を、冒険者を、緑の樹海を飲み込み、遅れて地鳴りのような衝撃と轟音が一気に広がった。
ミシミシと肉が音を立てながら獣王の額に亀裂が走り、やがて空気が破裂した炸裂音が響きオルヴェと獣王は反対方向へそれぞれ吹き飛ばされた!
「ぐあっ!!」
「────」
一気に脱力した身体ではまともな受け身すら取れず、オルヴェは地面に叩きつけられ二三度跳ねると倒れ伏したまますぐに顔を上げる。
全身に漲っていた力の代わりにあり得ない量の痛みが詰め込まれるがそんなのはどうだっていい!
──仲間は、獣王はどうなった!?
「……」
「まだ、やるのか……!」
倒れはしなかったものの獣王ベルゼルケルは大きく仰け反っており、二三歩程たたらを踏んでからゆっくりと体勢を戻す。
ここまでのありったけを叩き込んでも尚、王の威厳を示すように二足で領土に踏みとどまっているが豪腕はツタのようにだらりと垂らされ、荒い呼吸を繰り返すその額には星型のような傷跡が付いている。
……まだ来るのかと冒険者たちは武器を構える。
だが勝利の女神『たち』は冒険者たちが背を向けていた広間の入口から飛び込んできた。
「オルヴェッ!!」
「みんな大丈夫!?怪我はない!?」
突如として戦場に躍り出たのはアリシアとエド、そして司令部で出会った女冒険者ウィラフだった。
三人とも声だけをオルヴェたちに向けたまま獣王ベルゼルケルを睨む。
……ウィラフが構える赤い剣に映り込んだ獣王ベルゼルケルは思案するように小さく唸り、最後に冒険者たちを一睨みすると額から血を流しながら下階段へと素早く走り去っていった。
「数の不利を悟ったか……」
ボロボロの体を動かしていた糸が切れたようにマルコが汚れた地面に膝をつき、イリスたちもその場に座り込んで大きく肺に溜め込んでいた息を吐く。
血液内を満たしていたアドレナリンが切れた倦怠感と無視していた戦いの代償が一気に重く圧し掛かってきて、もう走れと言われようが立てと言われようがしばらく何もしたくない気持ちでいっぱいだ。
「みんな大丈夫ですか!?」
「これが大丈夫に見えるか?」
「ぷっ!!ははは!」
大慌てで顔を寄せてきたエドに向かってヴィーザは皮肉げに鼻を鳴らして見せる。
いつも通りに戻った友人の姿にエドたちは脱力感と達成感に肩を揺らし、ヴィーザル本人も少し気恥ずかしそうだがその表情は柔らかい。
「……なるほど、その手当はあの子達がしてくれたのね」
「アイツらがいなかったら多分こうやって喋るのも無理だっただろうな、イテテ……!」
一方で、ウィラフたちも遅れて来た衛兵隊と共に調子に乗って痛がるオリバーや衛兵長たちを慣れた手つきで手当していた。
アルゴノーツがやった応急手当に関してだが骨の固定や怪我の消毒よりも出血が抑えられたのが大きかったらしく、衛兵たちがやって来ては口々に感謝してくるのでヴィーザルは面倒くさそうにあしらいイリスは恥ずかしそうにその陰に隠れていた。
……結果だけ見れば獣王ベルゼルケルを倒す事は出来なかったし、自分の信念に巻き込んでしまった。
それでも、目の前にいる仲間たちの顔は誰の物か分からない血に塗れた土気色でも満足げに笑っていた──自分たちは生き残ったのだ。
「ん?どうしたオルヴェ?」
「なぁみんな、その、ありが──」
珍しくしおらしい様子のリーダーを目ざとく察知したヴィーザルがわざとらしく首を傾げてみせる。
気恥ずかしさを振り払ってオルヴェが一歩踏み出した瞬間、まるで止まった時間が動き出したように──その場に倒れこんだ。
「オルヴェ!?」
「ちょっとどうしたの!?」
何の前触れもなく重力に任せて倒れたオルヴェにエドたちの勝利の喜びは一瞬で霧散してしまった。
中でも自信満々だった顔が、まるで波が引くみたいに瞬時に真っ青になったアリシアは即座にオルヴェの肩を引っ掴んで揺さぶり起こそうとする。
ベータの上には倒れなかったものの、揺り動かされる度に潰れたカエルのような悲鳴を上げるオルヴェの姿に更に大パニックになるアリシアを引き剥がしエドたちは何かを言おうとする唇に耳を寄せる。
「ぜ、全身が痛い…」
『全身の筋肉を極限まで酷使した反動です』
「うわぁ……」
振り絞るようなオルヴェの声と相変わらず冷静なベータの解説に促され左の腕甲を外してみると、ほどよく焼けて健康的だった少年の皮膚は真紫や赤の混じった見るも無惨な姿に変貌していた。
獣王に襲われていた他の三人のように流血や骨折といった外傷は一番少ないものの、逆に筋肉や血管といった内側がやられているらしく利き腕に至っては触るだけで呻くし、どう見ても危ないタイプの痙攣を繰り返している。
顔をお世辞にも綺麗といえないような泥っぽい地面に突っ伏したまま身じろぎ一つ取れないのも納得である。
『ご心配なく。死にはしません、ただの筋肉痛です』
「死にはしないって……ウソだろ」
「むしろ何をどうしたらここまで重症になるのよ……」
”全身の筋肉と神経を極限まで鋭敏・強化し脳内物質を強制的にオーバーロードさせた反動によるただの筋肉痛”だとの訳の分からないことを給うベータにオルヴェは地の底を這うようなうめき声で反論する。
これは「ご心配なく」済まして良い問題じゃない。
例えるならさっきまで羽のように軽かった身体を満たす無尽蔵のパワーがそのまま鉛と激痛に置き換えられたような状態、それが今のオルヴェだった。
ベースキャンプまでなら歩けそうだとオリバーとマルコたちの声が聞こえてくるが、多分今のオルヴェには立つどころか顔をあげる事すら難しいだろう。
「とりあえずベースキャンプに戻ろっか、ほら乗って」
「ゔっ!ごめんなさ……ウィラフさん……」
勝鬨の声とは別ベクトルで騒ぎ出したアルゴノーツを見に来たウィラフは先ほどまで和気藹々としていたはずのオルヴェの重症に目を見開く、だがすぐに首を横に振って少年の身体を背負うと心配そうに見上げてくるアリシアたちに笑って見せた。
「良かったなオルヴェ、特等席だぞ?」
「うるさいヴィーザル……」
「せっかくの好意なんだしベースキャンプまでのんびりしたら?」
「だな……」
……まさかこうも軽々と持ち上げられるなんて。
憧れの冒険者の背中が嬉しいような、仲間たちにまあまあ無様な姿を見られて恥ずかしいような、いたたまれなくなったオルヴェは目を閉じて揺れに身を任せる事にした。
「そういえば、君たちはなんでわざわざ私を探したの?」
「え?」
碧照ノ樹海を進む間に背負われたオルヴェから小さな寝息が聞こえてくるのに時間は掛からなかった。
相当疲れていたらしく人の背中だというのに、口を開けて警戒心のかけらも無いようなだらけ切った寝顔を浮かべて眠るオルヴェにエドがそっと十字を切っていると明るい声が話しかけてきた……ウィラフだ。
「あの時は聞きそびれたけど、わざわざ私を探したって事は何か理由があったのかなって」
「理由ですか……」
どうかな、と陽気な声色のまま唇を尖らせて小首をかしげるウィラフの顔は年上の頼れる先輩冒険者ではなく、まるで同い年の少女のような雰囲気を漂わせていた。
……あの時、アリアドネの糸で離脱したアリシアとエドが向かったのは宿屋でもギルドでも司令部でもない、ミッションを受けた冒険者が多く集まるベースキャンプだった。
駐屯していた衛兵や冒険者たちは二人の負傷とあまりの剣幕とすぐに医者や巫医を呼ぼうとしたがなんとエドたちはそれら全てを拒否しウィラフの元へ真っ直ぐ走って助けを求めてきたのだ。
凹んだ鋼のスマイトシールドに、故障して黒煙を上げる星術器。
ギルドが壊滅したかのような全身傷だらけでどこからどう見ても戦う力は残っていない二人が真っ先に頼ったのは司令部で一度対面しただけの冒険者だった。
「獣王ベルゼルケルに対抗できるような冒険者と言ったら流石に数が限られるでしょ?だから……」
「あの場に居た人たちの中、そして僕たちが知ってる中で一番強い冒険者……ウィラフさんに声をかけたんです」
アリシアは自信ありげな表情で指先で癖毛をいじりながら、エドはこちらを伺うように背を丸めながら『答え』を口に出す。
イリスとヴィーザルも同意するように深く頷き、背中で眠るオルヴェは無防備な全身を乗せて目いっぱいに信頼を伝えてくるようだった。
……剣を持って家を出たあの日、一人前の竜殺しになる為に師事した日々、ツテを頼ってタルシスに冒険者として籍を置き、ついに竜を倒したあの時。そして今。
ずっと誰かに言って欲しかった言葉は、ウィラフが積み上げてきた実績とその活躍を見て育った後輩たちによってやっとつぼみを開いたのだ。
……何も言わずに遠くを見つめているウィラフに並々ならぬ物を感じ取ったアリシアたちが不安そうに謝りだして我に返ったウィラフは頬や耳を少しだけ赤く染めつつ、今一度気合を入れ直した足で樹海の出口を目指すのだった。