ヴルメールは雨が嫌いだ。 びしょ濡れになった体を拭うタオルもなければ、衛生観念の欠片もないドブネズミみたいに濡れた他人にタオルを渡すような奴もいない。 そして、こんな姿になっても自分の帰る場所は酒がなければ癇癪を起こす事しかできない能なしの父親がいるだけのあばら家だという事実が一番ヴルメールの吐き気を催す。 ヴルメールの顔は顔も覚えていない母親によく似ていた。 くっきりとした蛾眉と薄いべミ色の唇を歪め歯ぎしりするほどの殺意ですら、一枚の絵画になりそうな造形美とでもいうべき顔立ちだった。 漆黒の海のように深く青い髪、四十カラットのダイヤモンドのように輝く瞳。 まさに芥溜《ごみため》の花という言葉が相応しい美青年、ヴルメールの居場所はこの王都の下流にある貧民窟にしかなかった……今のところは。 「止むと思ったんだがな……」 白く濁った窓ガラスにあたる水滴にため息をつきつつヴルメールは棚からくすねた適当な酒と『いつもの』黒っぽい薬瓶を懐に忍ばせ、店から路地へ静かに舞い降りた。 そのまま厚手のボロを身に纏えばたった今彼が閉店した店の窓から飛び降りたとは誰にも分からない。 ましてやついさっき盗みを働いた事も、ローブの下が彼なのかでさえも。 (盗みにはちょうどいい天気だが、やはり雨だけは好きになれん) 窓から出る前は気づかなかったがヴルメールに叩きつける雨粒の群れはまるで滝のように辺りを白く染め上げる。 ……垂れた髪を拭って見上げた先には石造りの城壁に囲まれた王都と王域一帯に雨を齎す巨大樹──『世界樹』が聳え立っていた。 貧民街、そして王都からも遥か遠い場所にあるというのにヴルメールが手を伸ばせばここからでも青々と茂る樹葉や螺旋を描く幹に指先が届きそうなほどに巨大なそれ。 ……このアルカディアには伝説がある。 あの壁の向こうでぬくぬく暮らしている貴族のガキも、今もベッドの上で酒を待っているであろう死にかけのクズでさえ知っている。 もちろんヴルメールも。 ──前人未踏の世界樹の頂、そこには『この世を支配する権力』『世界の謎と真実』『世界最強の武』『莫大な金銀財宝』が眠っている、と。 (……どうせ嘘だろうがな) 生まれたときからずっと頭上にあるそれらに唾を吐き捨て、ヴルメールは雨の先を見つめる。 権力を手にするどころか名誉も権利もない透明の身からすればそんな伝説は何の価値もない。 道端に転がっている犬の糞と同等だ。 (そもそも、巨大な木の上にそんなものがあるのならとっくに王都の連中や欲深な商人どもが手を出しているはずだろうし) ……要は聞き分けのない子供を躾けるための、将来を悲観した若者が現実逃避するための、病床の老人が漏らすうわ言と同じ。 天から降り注ぐ冷たい思案を振り払い走ろうとした矢先、不意にしゃがれた声が足にまとわりついた。 「のぅ、そこのお若いの……のう」 螺鈿色の目玉をじろりと下にやると、そこにいたのはボロくずをまとった小さな塊だった。 |泣き女《バンシー》の呻きのような声と違って海藻のような布から見える手はほんのり丸く赤ん坊のようにぷくりと膨らんでいる。 どうやら声の主は|ヴルメールたち《アースラン》と違って子供の姿のまま成長が止まる『ブラニー族』のホームレスだった。 ……雨だけではなくこんな奴とまで出会うとは今日は本当にツイていない。 「なんだい爺さん、どこか調子でも悪いのかい」 ヴルメールが喉奥から込み上げる吐き気や嫌悪感を抑え、できるだけ優しい声色で微笑みかけてやるとブラニーの老人は素早く這い寄って靴に唾を飛ばしながらぺちゃくちゃ喋りだした。 「頼む……その酒をくれんか、もう何日も飲んでないんじゃ」 「……この酒を? 俺が? お前に? 何故?」 「一滴でもいい。一滴くれたら立ち去るから、頼む、アースランの若いの……」 ブラニーの老人は何度も何度も同じ言葉を繰り返しながら垢まみれの震える手でヴルメールのブーツを掴む! まるで触手のように足に巻きつく爪の伸びた指の感触に服の下の肌がぶわっと粒立つのと同時に、段々とヴルメールはこの老人に対してある種の『醜さ』を感じていた。 ……コイツは普段からこんな風に酒を持っていそうな奴に手当たり次第に話しかけているのだろう。 自分の手で酒代を稼ぐのでもなく、他人から無理やり奪うわけでもない。 こうやって〝優しい誰か〟が可哀想な自分に施しをしてくれるのを待っているのだろう。 なんと哀れで──無様で汚らわしい生き物なんだ。 「……悪いな爺さん、お前に酒はやれないよ」 しばらくヴルメールは必死に酒を求めて追いすがる物乞いの男をぼんやり眺めていたが不意に弧を描いた唇を歪め──首を横に振った。 「なんせコイツを早く持って帰らないとゴミがうるさいんでなっ‼」 「ぶぐぇっ‼」 ヴルメールは思い切り空いている方の足を振りかぶり、縋りつくブラニーの老人めがけて渾身の蹴りをお見舞いする! 青年の蹴りを腹でまともに受けた老人は荷物をぶちまけながら空気をパンパンに詰めたボールのように路地の奥へ飛んでいった。 その姿を見ているだけでヴルメールの胸にはあれだけあったどす黒いタールのような感情が一気に吹っ飛んで、代わりに清らかな爽快感が全身を駆け抜ける。 「は、はがが……」 「いいかジジイ、俺はお前みたいな他人のおこぼれだけで生きているグズが大っ嫌いなんだ。分かるか?」 「おぶぇ‼」 逃げようとするブラニーをヴルメールは口笛を鳴らして追いかけ、無様に逃げようとする背中めがけてもう一度蹴りを叩き込む! 情けない鳴き声と共に吹っ飛ぶ姿を見れば、もうおかしくって腹がくすぐったくてしょうがない。 「か、かひ……」 「あと酒飲みも嫌いだ。覚えておけ」 このまま殴り続けたら雨が止む頃には死ぬだろうがどうでもいい、この街は殺すか殺されるかだ。 煩わしい事を頭の中から投げ捨てて、ヴルメールが老人の荷物を踏み潰しながら歩いていると不意に足元からふわりと清涼感のある香りが広がる。 寂れた貧民街には似つかわしくない謎の匂いにヴルメールは歩みを止めしゃがみ込む。 ……足裏の砕けた瓶から溢れているのは色のついた精油、そして白っぽく退色した草がぐちゃりと潰れていた。 「へぇ、爺さん薬草師《ハーバリスト》だったのか」 「ゲホッ! ゴホッ! うぅ……」 地面で咳き込むブラニーの老人──よく見れば大事そうに抱えている大きな鞄や顔にある|金属製の仮面《ガスマスク》、染み付いた煙の匂いでハーバリストと分かっただろう。 ……そして何より重要なのが、この老人が貧民街の外から来た〝よそ者〟だと確定した事だ。 この街で暴力や喧嘩は掃いて捨てるほどあるが、人を殺したり死体を埋めに来るような奴は大抵外の人間なのだ。 「丁度いい。その薬を分けてくれないか? 俺の父が病気でね……」 「金などないぞ、ワシは……」 もう一度首根っこを掴んで揺らしてやるが、ブラニーの老人はまだボンヤリしているのか首を縦に振る事もYESとも答えない。 ……コイツは自分の心の広さに感謝するべきだろう。 もしヴルメールが考えなしのチンピラだったのなら今頃この老人は土の中か魚の餌だ。 「強情だな……なぁ爺さん、俺にはちょっとした特技があるんだ。目を合わせれば〝誰にでも頼み事を聞いてもらえる〟って特技なんだぜ?」 「そりゃあどういう──」 「こうするんだ──『今すぐ薬を寄越せ』」 ──にこやかに拷問を続けていたヴルメールの瞳が月のように狂おしく輝く。 コレが効くかどうかは出たとこ勝負だが今のところ失敗した事は一度もない。 「あ──」 輝く眼光を直視したブラニーの老人はビクリと大きく跳ねて動きを止め、そして次に顔を上げた時には光のない虚ろな瞳のままこちらを見上げていた。 「……それじゃあ俺という〝親友〟を助けるために何か薬を出すんだ。いいね?」 「はい」 「できるだけ珍しい奴にしろ。ここら辺の奴らじゃあ手に入らないような」 ブラニーの老人はこくんと頷くとすぐさま命令通り〝自分の手で〟革鞄の中へ手を突っ込んで薬を探し始める。 ……もうすぐ、もうすぐだ。 あのベッドの上で無くなった足を触って喚くだけの肉塊を〝処分〟できる。 万が一、自分に嫌疑がかかろうとも死体から出る毒草と貧民街の外から来たハーバリストと来ればそちらに目が行くのは言うまでもないだろう。 目当ての物を握って出てくるであろう小さな手への期待からヴルメールの両方の頬が緩み無意識の内に鞄にぐっと顔を近づけていた。 「残念だが、その〝目〟はワシには効かんぞ。『オパライズ』のアースランよ」 「っ⁉」 ──理性を宿した低い声がヴルメールの鼓膜を揺らす。 まさか、そんなはずは。ありえない。 先ほどまでの恍惚交じりの夢うつつ顔はこちらを値踏みするような冷たい笑みに変わっており、ブラニーの老人の手に握られていたのは薬とはほど遠い──子供の拳ほどの大きさの黒っぽい玉だった。 (──まずい!) 咄嗟にヴルメールは老人の首を掴むが、彼は驚くどころか瞼をピクリと動かす事すらせず〝それ〟を地面めがけて叩きつけた。 直後、雨の路地裏に赤紫の瘴気のような禍々しい色の煙が一気に充満する! 「⁉ っ、うおぉ‼」 煙に触れた瞬間、全身のありとあらゆる粘膜を無数の細い針が突き刺すような痛みに襲われ、思わずヴルメールはブラニーを地面へ投げ飛ばして激しく咳き込む。 一方で毒ガスの中に転がるブラニーはヴルメールと同じように痛みに悶えるどころか、なんと割れたガスマスクを外し──何でもない事のように起き上がった。 「モーリュと石灰毒をブレンドしたワシの特製スモークはどうかね? 中型の獣ならこれ一つで追い払える」 「ぜ、けっ、この……う、ゴホッ!」 「まぁこの空気の中で答えるのは難しいかろうが、じき収まるよ」 死ぬわけではないのだから落ち着け、とでも言いたげに老人は肩をすくめると何とか煙から逃れようと地面でのたうち回るヴルメールを欠伸しながら眺めていた。 「それにしても貧民の『オパライズ』とは珍しいのぅ。この辺なら大抵チビの頃に貴族か騎士に拾われそうなものだが……」 ──その言葉にヴルメールの胸が一際大きく脈打ち、頭から爪先まで一気に沸騰した血が昇る。 殺す。このクソ野郎は絶対に、ヘドロまみれの排水路で溺れ死にさせてやる! 「こ、のぉ‼」 「おうこわいこわい! 暴力反対なのじゃぁ〜〜!」 ヴルメールが老人めがけて右の拳を撃ち抜くも滲んだ視界では前すら見えず、殺意の拳は虚しく空を切る。 両の眼から拭っても拭っても垂れてくる体液を拭い煙の向こうの相手を睨みつけていると、何がおかしいのかブラニーは目を細めてくつくつと鼻で笑いながら転がり出た薬瓶を拾う。 「……王都で規制済みの薬物はここに流れてきたのか。これで何をしよーとか、使い道はどーでもいいのじゃがコイツじゃあ後二、三ヶ月で足がつく」 「ぐっ……」 「見た感じ二十そこらのアースランの小僧じゃろう? チト栄養不足のケがあるが、それだけ腕力があればこんな毒など使わずともキューッと首でも絞めてやれば殺せるだろうに」 「──殺したいのはもしかして『親』かの?」 続く言葉にヴルメールは心臓に鋭い氷柱を突き刺されたような衝撃を受け、ブラニーの老人を驚愕と嫌悪の入り混じった目で睨む。 ……この腐った街でも唯一あるルール、それは親殺しをしてはならないというもの。 どういう理由で決められたか、どこの頭お花畑が決めたか等という疑問はどうでもいい。 ただ一つ言えるのはこのクソみたいなルールのせいで自分の人生はあの酒浸りのクズに囚われているのだ。 「……で! 俺のことを衛兵にでも通報でもするのか? 老人や親を殺そうとした罪でか?」 「いいや、そんな〝勿体ないこと〟はしないよ」 「はぁ? じゃあ何だ? 俺を娼館にでも沈めるのか」 「ワシがしたいのはおヌシとの取引じゃ。なんならここでワシを刺し殺すよりもずっと有意義じゃと思うがね」 「……」 自分の弱みを握ったというのに老人が要求してくるのは酒でも金でも体でも絶対の服従でもない。 まんまる目玉の無垢な子供のような顔をして全く読めない彼の思惑にヴルメールはしばらく唇を噛んだ。 「何が目的だ」 「おヌシの親殺しを代行してやろう。その代わり、用事が済んだらワシの手伝いをしてもらおうかの」 「断ったら?」 「仕方ないと諦めたいところじゃが……少なくともワシにはまだ毒玉の残りがあるぞ」 ヴルメールの脅しにすらブラニーの老人はまるで幼子のいたずらを見咎めるように口角を上げ笑ってみせた。 だがその手は新たな毒玉を探るように鞄の中に突っ込まれ、朱と翠の瞳は目の前の青年に銃口のように向いている……多分この様子だと、後ろ手に隠し持ったナイフも勘づいているだろう。 「……いいだろう。俺は殺しの代行、ではお前は俺に何を望む?」 ヴルメールは手の中の凶器をくるりと一回転させてポケットへ戻し、改めてブラニーの老人に向き直ってやると彼は満足げに肩を震わせ──小さく短い人差し指を『上』へ向ける。 老人の言う通りにヴルメールは頭上に目線を向け──結んだ口から勝手に神への罵声が飛び出した。 「……まさかとは思うが爺さん、あの『伝説』を信じているのか?」 「そのまさかじゃ」 ──丸っこい指先が指し示したのは黒い雲に覆われ、世界を覆いつくさんばかりに枝を広げ、アルカディアの大地に根付く世界樹だった。 「オパライズのアースランの青年よ。ワシからの頼みは一つ、ワシと共に『世界樹の迷宮』に挑んでもらうぞ」