3.堕落の女騎士

ミダスの手:ヴルメールとジルの出会い

 北に世界樹、東に美しい大瀑布を擁し、南には緑広きイシス平原を有するアースランの王都、その晩もいつも通り夜空に二つの満月と無数の星々が浮かんでいた。 「──では、ゆっくりと英気を養うように」 「お先に失礼します、ジル大佐」  風切り音を鳴らしながら一礼した新米騎士に向かって『ジル』は首を軽く振る。  ……立ったまま眠りこけていた彼に「今夜の見張りは私がしよう」と持ちかけた時はこちらを同僚かと思ったらしく、反射的に背筋を伸ばしただけの敬礼を返した。  待ちに待った休憩だと緩みきった顔を上げたあたりで自分の目の前にいるのがあの『蜥蜴戦役の女神』だと気づき──今夜の事は見なかった事にしておこう。  騎士の青年は突然降って湧いた幸運にもう一度小声で感謝しながら宿舎へと戻り、響く鎧の音や軽やかな足取りがまるで小さな愛らしい子羊がぴょんぴょん跳ねているようだった。  ──やがてその気配も遠ざかり、王宮の庭園にはジルと夜の静寂だけが残る。  そして、腰のサーベルを引き抜いて刃を翻し背後に並ぶ石柱の一本に向かって呼びかけた。 「……さて、私に用があるのだろう」  ──王宮の騎士でも気づけない相手なら自分の出番だ。  先ほどの騎士を見る慈愛に満ちた青い隻眼は煙を吐く銃口のように鋭く、左側が焼けた面貌は冷たく酷薄なものへと変わっていた。  警戒を照準のように向けたままジルが石柱を睨んでいると、やがてその影からくつくつと嘲笑う声が響き渡る。 「流石、『蜥蜴《レプティリアン》戦役の英雄』ジルは違うな」 「左から五番目の石柱の影だろう。出てこい」  サーベルの切っ先を突きつけてやると不愉快な笑いと共に影色の左足がするりと伸びて──石柱の影から海のような青い髪と七色の目をした美しいアースランの青年が現れた。 「何者だ」 「俺の正体なんて今はどうでもいいよ、ジル大佐」  謎の青年は歌うように唇を震わせ、火傷痕のある彼女の顔を瞬き一つせずに見つめる。 「敵の攻撃を受け当時の部隊と片目を失いつつも、巻き込まれた民間人の命を守り抜いた戦場の英雄。終戦後は王都騎士団に栄転し後進の育成に当たっている……だろう?」 「賊にしてはよく勉強しているじゃないか」 「俺は読書が趣味なんでな」  満月のように光る瞳に、思わずつばを飲み込むほどに艷麗な口元がこともなげに美辞麗句を並べ立てる。  娼婦のような妖美さと王侯貴族のような気品が同時に漂う造形美にほんの一瞬だけサーベルを握る手が緩むが、即座にその好感は消え失せる。  ……虹を固めた瞳の奥、輝く瞳孔がまるでジルを値踏みするように上から下へと動く、見た目の美しさを掻き消すほど圧倒的な〝闇すら飲み込むドス黒い心〟がそこにあった。  ──やはりコイツの相手は新兵には荷が重い。 「君は十年前の戦場にもう一度帰りたくはないか? 心通じあう仲間たちと共に過ごし、多大なる戦果を挙げ、両目があり、英雄としてもてはやされたあの日々に」 「私は戦士である以前に騎士だ。王命とあらば何であろうと拝命するまで」  ジルの剣呑な沈黙をよそに、青年は退屈そうに耳の穴をほじくっていた。  指先についた汚れをふっと吹き飛ばし、射干玉の瞳をようやくジルに向ける。 「本当か? 〝英雄の保護〟と言う名目で内地に移され、失った片目と仲間たちの無念を晴らすことさえできない──だろ?」  ──心臓が震え、左の拳に血管が浮き出るほど力が入る。  ジルは今でも瞼の裏で光と熱が爆ぜるあの惨状を覚えている。  だからこそ、拳に入れた力を静かに抜いた。 「……この目を失ったことに対する後悔はない、内地に移されたことに関しても何の不満もない」  腹の中で煮えたぎる怒りと屈辱を飲み干し、淡々とあの日の覚悟を詠じる。  すると静かな庭園に拍手の音が鳴り響く──淀みなく答えたジルに青年は更に興奮した様子で肩を震わせていた。 「いい。その忠誠心と冷静さ、アースランのサガを抑えつけるほどの自制心──ますます欲しい」 「私が欲しい? 随分と舐めた口を利くものだな……生憎私は忙しい、後は牢屋で聞かせてもらおう」  聞いているだけで頭が痛くなってくる戯言を遮り、ジルは銀色の一太刀を青年の肩から胸に食らわせる!  ……だか、刃から返ってきた手応えは肉でも鉄でもなかった。 「──その言葉。そっくりそのまま返させてもらうぜ、蜥蜴戦役の女神さん」 「なっ」  まるで〝人型の霞〟を切ったような手応えの直後、青年だった毒煙はジルの顔の前で大爆発を起こした! (爆弾⁉ いや、これは──!)  毒とは思えない甘く、とろける蜜のような本能を刺激する香り。  ……身体に染み付いた毒ガスへの対策を取る前に鼻腔が無意識の内に動く。  いくらジルが経験豊富な軍人であろうと、人間の本能に訴えかける香りと濃い煙は一瞬だけ彼女の視界と判断を鈍らせ、体が急に軽くなったと認識した時にはすでに〝本物の青年〟は唇どころか睫毛が触れ合う距離まで迫っていた。 「──『蜥蜴戦役の女神』ジル、お前は俺の物だ」  あっ、と声を上げる間もなく柔らかい肉が口内に|にゅるり《・・・・》と押し入り即座にジルは青年の舌に噛みつく。  だが溢れ出したのは赤い鉄の苦味ではなく、脳が洗われるような甘美な味わいだった。  吐き出さなければ、どうして吐き出す?  コレは危険だ、こんなに美味しいものは食べたことがない、飲み込むのはまずい、舐めるだけなら?  何を考えている、甘い、気持ち悪い、美味しい、舌を押し込んでくるな、あつい、いらない、もっと、いやだ、もっともっと、どうして、もっともっともっと、ほしい── 〝──蜥蜴戦役の女神、謎の失踪⁉ 王立騎士団団長のジル=■■■氏が未明より行方が分からなくなっていると騎士団が発表した。 詳細は不明だが、昨晩ジル氏と似た背丈の女性が若いアースランの青年と連れ立っていたという目撃情報があり、関係者はこの件に対し──〟

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更新履歴

・2026/03/24:第1版