──『お前は不吉だ』。 母か父か、それとも心ない友人か大人かも分からなくなっているが、それが『ネリーモア』のいちばん古い記憶だ。 濡羽色の髪、大鴉のような肌、オニキスのような闇色の眼。 生まれ持ったそれらのパーツはネリーモアのものではなく遥か昔にいた邪悪な死霊術師『クロウ』という男のものだった。 かつて、魔術の塔にはルナリアの双子の兄妹がいた。 真っ黒な髪と目をした兄クロウと、真っ白な肌をした妹のスワン。 二人には類稀なる死霊術師の才能があり日夜生と死の真髄を探求していた。 そんなある日、兄のクロウは生と死を超越する妄想に取り憑かれ『不死者の指輪』を盗み出した。 魔術の塔に伝わるアーティファクトを盗み出せばどうなるのかクロウには分かっていたはず。 だけど彼は己の野望を止められなかった。 たとえそれが魔術の塔を敵に回し、肉親にすら命を狙われるとしても。 妹のスワンは兄の凶行を止めるべく自分の娘たちを連れて旅に出た。 長い旅路の末についにクロウはスワンの前に姿を現し──実の妹を手に掛けた。 そして追跡から逃れた邪悪な死霊術師クロウはアルカディアのどこかへと逃げていった。 死霊たちを支配し、己の王国を作るために。 ……そんな、お伽噺のような、本当の話。 起こっていない出来事を変えるのは容易い。 だが、既に起こった出来事を変えるにはどうすればいい? 死霊術を徹底的に人生から追い出し、周囲から忌避されても、人並みの人生を送ろうと努力することを諦めても、家を出ても、魔術への道を進んでも、いつまでも成果を出せずに無駄に歳を重ね、白くなってきた髪に安堵しても『クロウ』はまるで影法師のようにいつまで経ってもネリーモアを離してはくれなかった。 「……ん」 ふと、頬に触れる冷気に『ネリーモア』は瞼を開く。 紙カップに入った蛍光色の栄養ドリンクの炭酸はすっかり抜けきっており、まあいいかと小さな埃の浮いたそれの残りをぐっと喉奥へ流し込んだ。 (いつも通り、居残りは私だけか) とりあえず飲み物を替えようとネリーモアは硬くなった全身の関節を鳴らして立ち上がる。 すでに自分以外の魔術師はいないらしく、どこまでも続く青白い回廊を点々とある魔力灯と月明かりがぼんやりと照らしていた。 ……まるで自分以外の人間全てが滅んだかのように、何もない。 その静寂がなぜか今宵は心地よかった。 一階の食堂にはさすがに誰かいるだろう、いや誰もいないでほしい。 そんな事をぼんやり考えながらフラフラと彷徨っていると──窓辺に学生でも同僚でもない何者かが腰掛けていた。 「やぁ、いい夜だね」 突然の不法侵入者に固まるネリーモアをよそに、月光を背にしたアースランの美青年は窓枠から降りると〝虹色の瞳〟を細めながら軽く挨拶してきた。 「お、『オパライズ』……⁉」 「へぇ、知っているのか。俺のこと」 ──四種族の間に極稀に出現する突然変異『オパライズ』。 類まれなる美貌と求心力により古来は種族をまとめるリーダーとして歴史に名を刻んだが、時代が下るにつれ〝道具〟に成り下がった者たち。 現在オパライズの研究は塔内でも厳しい制限があり、〝実験してもよい〟のは志願者《ボランティア》かつルナリアのオパライズだけ、非倫理的な実験は禁止。 ……表向きは。 (ハーフの孤児か? この生育状況なら脱走する可能性はある。だがタグも魔力の痕跡もない……野良か?) ネリーモアが黒い唇をかんだまま頭の中身だけをぐるぐる回転させていると、アースランの青年は困ったように小首を傾げた。 「すまない、実は迷子になってしまってね……出口も入口も分からないんだ」 「っ、なら私の研究室に来るのはどうかな?」「!」 「飲み物も出そう、朝になったら警備室に送ってあげよう」 「本当かい? ありがとう」 ネリーモアが食い気味に助け舟を出してやるとアースランの青年は年相応に目を輝かせ嬉しそうに首を縦に振る。 ……下心が無いわけではない。 ただ、この青年は男だ。 適当な雌を宛てがいオパライズ〝養殖〟すればどれだけ研究が進むだろうか。 まだ研究室内で血液中に微小な生命体が存在しているとしか分からないこの生き物のルールを解き明かせればどれだけのセンセーショナルを引き起こせるだろう。 ──いや、流石にそれは研究倫理にも反している。 もしも上層部に勘づかれでもしたらネリーモアの人生はおしまいだ。 (……『クロウ』の影に取り憑かれた『ネリーモア』も解放できるんじゃないのか?) ──どうでもいいや。 どのみち自分にはもう『道』は残っていない。 もうすぐ査定《おわり》が来る。 このオパライズの青年を〝研究〟すればこの塔での居場所だって論文だってなんとかなるかもしれない。 不用心な青年が研究室の埃っぽいソファーに腰掛け、ネリーモアは誰にも気づかれないように静かにゆっくりと扉に鍵をかけた。 服の中を汗でびしゃびしゃにしたネリーモアとは対照的に、青年は暢気なもので物珍しそうに本や研究器具や書きかけの論文をしげしげと眺めている。 一体何が面白いのだろうと理解に苦しむが、不意にその視線がネリーモアを真っ直ぐ射抜いた。 「ん、腕章もバッジも着けてない。あんた下っ端か?」 「……」 ──口角が少しだけこわばる。 自分の半分も生きていないような青年は的確にこれまで見ないふりをしてきた自分の背中を言葉にする。 ……苛立ちや怒りを覚えるラインなどもうとっくに過ぎて、ただ自分の背中に積まれた石が一つ増えたような気がしただけだ。 「……そんなもんさ。二百年も生きていて何も成せていないのだから下っ端と同じだ」 「怒らないのか」 「もうそんな歳ではないからな」 「身体《オレ》が欲しいんだろ?」 「よく分かっているじゃないか。私もそろそろ後がないんだ」 「何の取り分もなしに身体を明け渡すのはゴメンだ」 「なら、何が欲しい?」 青年はネリーモアに更に密着すると、透き通るように玲瓏な声で言葉を紡ぐ。 「賢い鴉が一羽欲しい」 「……それは難しい条件だ」 「そうか? 俺の目に狂いがなければお前の翼には何の枷も傷も無いぞ」 「でもこの場所を出たら、この身体に呑まれ死霊術に堕ちるのではないか……それが不安なんだ」 「支配は俺の領分だ、俺に頭を垂れるなら全ての死霊術の誘惑からお前を守ってやろう」 ネリーモアの呟きに青年はスラスラと応え、迷いのない声を聞いていると彼がまるで賢者か聖職者のように思えてくる。 チューベローズのような体臭に混じり首元を緩める指を思わず凝視してしまい、青年はネリーモアを挑発するかのようにケラケラと笑った。 「今お前を縛っているのはお前自身だ。この鉄の鳥籠の中でしか生きられないと思っている」 「そんなことはない、そんなこと……」 ……まやかしだ、自分はフェロモンの影響を受けている。 今すぐ換気システムを起動させるか、中和剤を飲まなければ。 すぐそこまで迫っていた青年を振り払い、薬品棚の前まで走って、扉に手をかけた。 でも窓に映っているのは黒髪と黒目、そしてウォーロックの服を着た『クロウ』。 もう二百六十三歳だと言うのに悲鳴を上げて、膝から崩れ落ちて、冷たい床にへたり込んで、息が、息ができない。 ……ふわり、と鼻腔を花の香が満たして過呼吸が少し楽になる。 自分の肩越しにはあの青年、オパライズの青年が、自分の肩を抱いて隣に座っていた。 その目、その香り、自分を案ずる声を聞いているだけで激しい心拍も痛む喉も少しずつ平静を取り戻して、今まで目を背けていた言葉が自然に口をついて出た。 「……どうすればいい?」 「俺に委ねろ。そうすれば全てが手に入る。俺の身体も、未知も、知恵も、〝お前自身〟も」 ……ああ、それもそうか、鴉が一羽いなくなったところで誰も気づくまい。 それが年老いて、知らない間に飛び去って、二度と戻らなくても誰も構いやしないだろう。 『ネリーモア』も。